『パンク侍、斬られて候』

パンク侍、斬られて候
著者 :町田康
出版社:マガジンハウス 
発行年:2004年 
価格 :1600円


<あらすじ>
世界は巨大な条虫の胎内にあると信じ、そこから脱出すべく虚無的な乱行を繰り広げる教団「腹ふり党」。その対策者として超人的剣豪である浪人・掛十之進は黒和藩家老・内藤に雇われるが、すでに腹ふり党は隣藩において滅亡していた。そのため、面目を失うことを恐れた内藤は掛らに命じ、腹ふり党の生き残りの幹部である茶山に偽者の腹ふり党を作らせる。だが、偽者の腹ふり党の勢力は制御できないほどに拡大してしまい、黒和藩を破壊しつくしてしまう。ちょうどそのとき、藩主一行は猿回し見物に出かけており難を逃れる。そして彼らは人語を解する猿・大臼の率いる猿軍団の助けを借り腹ふり党へ反撃を開始する・・・。


えーと、これは何ですか? 風刺ですか?(笑
初期の筒井康隆作品を思わせるような、設定も展開も予め破綻しきったドタバタ劇とでも言いましょうか。登場人物は、自意識ばかり高い無責任なサラリーマン侍やら、自分で考えることもせずムーブメントに乗って暴走する群衆やら、どいつもこいつも馬鹿ばかりというように描かれており、それはいかにも現代日本を構成する人々の戯画といったふうである。そして最後は血みどろのカタストロフ。かつて筒井ファンであった私としては、いかにも懐かしい展開である。それはすなわち「古臭い」ということでもあるのですが(笑 筒井の『虚航船団』ほど完成度の高い小説でもないし。


物語のジャンク化を通して逆説的に世界のジャンク性を明らかにしていくような町田や中原昌也の手法は、もはや有効性が低下しているのではないかと私は思うわけなのですよ。世界は自らのジャンク性を百も承知で、それでもジャンク的に肥大化して行き収拾がつかないところまで来ており、つまり小説が戯画的に描く状況よりも更にジャンク的であるというわけで、それを戯画化したところでジャンクの外へは出れないわけですよ。

そんなわけで、結局町田はカタストロフの後にただ一人生き残った主人公-パンク侍-掛に「でたらめで、理由も何もない虚妄の世界だとしても、それでも世界なんか関係なく生きていかねばならない」というような決意の言葉を吐かせ、腹ふり党的な世界から超越したいという欲望からも、藩士たちの世界の中で意味を持った存在でありたいという欲望からも距離をとるわけなのですが、それって卑怯だよね(笑 
まあ、そんなわけで、最後の最後には親を殺された女性が「こんな世界だからこそ絶対に譲れないことがある」と主人公に復讐をおこない、ウソそのものの美しい空だけが残るのですが。結局残るのは嘘っぱちな「主観」だったりするのだね。虚妄の世界で「世界に関係なく生きていく」ためには、自らの主観というウソを自ら作り上げてそれに縋んなきゃならんという。それじゃ何の解決にもなっていないと思うのは私の気のせいですか?(笑


でもなあ、どこかの書評で高橋源一郎がこれを「途方もない傑作」って書いていたけど、そういうことが平気で言える高橋源一郎は終わっている感が強いなあ(笑

サトラップの息子

サトラップの息子
著者名:アンリ・トロワイヤ
出版社:草思社 
発行年:2004年
価格 :1600円


<あらすじ>
レフ・タラソフ少年は、ロシア革命により家族とともにフランスへ亡命する。その途上で友人となったニキータという年上の少年とフランスで再会したレフは、『サトラップの息子』という小説を合作し始める。だが、ニキータの兄嫁からもたらされる性的な関心の芽生えとともに、二人からは『サトラップの息子』を完成させる意欲が失われていく。やがてニキータは家庭の事情によってベルギーへと去り、成長したレフはアンリ・トロワイヤという小説家となる・・・。

一見自伝小説のようであるが、様々な仕掛けに充ちた小説である。
小説の語り手はレフ少年ではなく、あくまで現在の地点での「アンリ・トロワイヤ」(という作中の作家)である。
レフとニキータは『サトラップの息子』を書くに当たって様々な文学上の意見を交わすのであるが、そこでニキータは「本物の作家は実際の出来事を書いたりしない(・・・)話を拵えるんだ。それが仕事なんだから!(・・・)人を面白がらせるには嘘をつかなくちゃ!」と語り、レフもまた「自分が小説の作者として知識不足なのではないか」という不安を抱えながらも「自ら経験せずとも、さまざまな情熱をわけへだてなく言祝ぐことこそ、本物の作家に備わっている特殊能力ではないだろうか」と述べる。
レフはさらに「真実を書くことが感動を生む」という文学観に反発し、文学における幻想の価値を擁護する。ここで問題とされるのは文学における虚構と真実のありようであり、ここにおいてこの小説は「果たして真実の自伝なのか」という疑問を読者に投げかけることとなる。レフはまた、小説を書くことによってはじめて記憶を生き生きとしたものとして思い出すことが可能となったりもするのだから。その記憶もまた虚構化された「物語」なのである。

そしてこの小説のもうひとうの軸は「亡命」である。アンリ・トロワイヤというペンネームで作品を書くことを編集者に要求されるレフは、ペンネームで書かれた小説を手にしてもそれが自分の小説であるという実感がまるでしない。そしてレフは他のロシア人亡命作家のもとを訪ねるのだが、亡命作家が祖国と同時に読者を失った「誰もいない場所」への二重の亡命者であることに気づく。
レフの両親もまた亡命しながら、つねにロシアに置いてきたものばかりを考える。そして破産によって思いでの品を失って初めて新しい生活に踏み出せるようになるのである。だが、レフには思い出すほどの過去がないために容易にフランスの生活に慣れ帰化さえすることとなる。そうであっても、トロワイヤというペンネームには実感が湧かない。作家にとって亡命とはまず言語の問題なのである。そしてその亡命もまた虚構化された「物語」としての亡命である。

アンリ・トロワイヤピョートル大帝エカテリーナの評伝により有名であるが、そういう人物が虚構性を前面に立てた自伝を書くということにはある種の面白さがある。それとは無関係に、感情を過度に語ることなく、まず行動をもって人間を語るという書き方は、古きよき小説の香りがして好感が持てる。こういう小説は幾らでも感傷的に書けるものなのだから。

そして最後にレフの言葉から引用する。

そして先人に倣って自らも「呪われた詩人」になることを夢見る。しかし、差し当たってリセに通う平々凡々たる生徒に過ぎない私は、呪いなどとは全く無縁で、常日頃、救いようのない自分の凡庸さを意識すると同時に、不満を漏らす権利は自分にはないのだとも感じている。なにせ暖かい寝床で眠り、腹一杯食うことのできる身分なのだから。

呪われた人生とは無縁であっても小説家にはなれる。
小説家の作品と人生とは一致するものではないのだから。

ダンボールボートで海岸

ダンボールボートで海岸  
著者名:千頭ひなた
発行年:2004
出版社:集英社
価格 :1300円


<あらすじ>
主人公のアオイは、ただひとりの肉親である母親が男と蒸発したために、大学を休学しフリーターをしながら何とか生活している。そこへ自称アーティストの友人であるハナが転がり込み、二人は共同生活を始めることとなる。さらに、アオイは女装癖のサラリーマンであるクロと知り合い、彼もまたアオイの家に入り浸るようになる。だが、記憶にないが確かな感触として存在する「海岸」を思い浮かべることだけに縋りながら日常をやり過ごしているアオイにとっては彼らの存在もまた・・・。

えーと、典型的なイマドキの小説ですね。
ジャンクな固有名詞を散りばめた軽い文体に、周囲との疎外というか、関係の中での生きづらさみたいなテーマ。ここでもまた、生きることの実感のなさなんてものが扱われているわけ。

現実逃避であることを知りながら、自分の内側の理想的な場所に縋らなければ生きていけない生き方。消費されることとしての人間関係。同性愛者であるハナと服装倒錯者であるクロを通して描かれるジェンダーと自分らしさという問題。そういうイマドキなテーマがわんさか散りばめられて、まさにイマドキ小説のお手本みたいです。

結局、主人公は自分が交換不可能な何かであることを信じることが出来ずに、日々をやり過ごすべくかえって日常の中に逃げていくのだが、それはつまり、日常の中には何も望まないということであり、日常の外にあるものを信じることで日常に期待せずとも何とかやっていけるということ。
でもって、ハナという登場人物を通して主人公のそういった「超越への期待」みたいなものは批判されるわけなんですが、このあたりオウム事件以降の小説らしい反省であるとは思います。大きな物語に期待するのは危ないぞ、という。
だけどさ、そうやって大きな物語を小説から排除しようとする態度もまた小説を貧しくしてしまうありかたなわけで、そういう部分が最近の小説のつまらなさ・世界の小ささに繋がっているんだろうなと感じてしまうわけなのであります。だからって、大きな物語を信じているわけじゃないけど(笑

閉ざされた城の中で語る英吉利人

閉ざされた城の中で語る英吉利人 (中公文庫)
著者 :ピエール・モリオン 生田耕作・訳
発行年:2003年
出版社:中公文庫 
価格 :533円


先日、栃木かどこかの男が小学生少女を殺して逮捕されたそうです。
まあ、その事件そのものは「かわいそうに」と無責任な感想を抱いて終わる程度のものなのですが、犯人の部屋から大量の少女ポルノやら何やらが押収されたとの報道に、ああまた相変わらずの切り口だなと思ったわけなのです。
これでまた、どこかの馬鹿な政治家なんかが「少女ポルノをさらに規制すべきだ」なぞと言い出すんだろうな、などとね。
別に少女ポルノ自体が規制されようがどうなろうが私としてはどうでもいいわけなのですが、「ペドフェリアはキモイ」という<良識>やら「悪書が犯罪を誘発する」的な紋切型やらには辟易してしまうのです。
これが、犯罪者の部屋から見付かったのがヘンリー・ミラーやらフォークナーやらだったら、悪書だから絶版にしましょうか?(笑
サドだったらあからさまにアレですが(爆


というわけで本題、ピエール・モリオンの『閉ざされた城の中で語る英吉利人』。
ピエール・モリオンというのはマンディアルグの変名なわけで、この小説も文章と舞台装置は絶品であります。引き潮のときにしかそこへ行くことの出来ない海辺の城というだけでもまるで古典ミステリでも始まるかのような設定。そこで繰り広げられる血まみれの性交。それこそサドへのオマージュとでもいうかのような。つーか、その程度に凡庸というわけなのですが(笑
蛸の這う水槽の中で蛸を食い千切りつつの処女陵辱には「春画かよ」って突っ込みたくなるし。
結局、「エロスは黒い神だ」ということがメインテーマみたいなんですが、そういう凡庸さに目を瞑れば、チンコが立派に起っ勃つぐらいの魅力的な小説であります。まあ、エロスというのは結構保守的なわけで、陵辱とか暴力とかがそそるのは割合誰でもが共有する傾向であって、だからこそ「良識人」はそれを規制しようとするんですが。
まあ、『眼球譚』ではチンコたたないですが(笑

サラマンダー 無限の書

サラマンダー―無限の書
著者 :トマス・ウォートン  宇佐川晶子・訳
発行年:2003年
出版社:早川書房 
価格 :2400円


<あらすじ>
18世紀末、四六時中変化しつづける機械仕掛けの城に住むスロヴァキアの伯爵オストロフは、無限に続く終わりのない本の製作をロンドンの印刷職人ニコラス・フラッドに依頼する。フラッドは伯爵の娘イレーナと恋に落ちたが故に11年間牢に幽閉されるが、想像上の印刷機で想像上の本を作ることでその時間を耐えつつ、ついにはイレーナとの間に生まれていた娘パイカにより牢から解放され、そこから本編が始まり無限の本をめぐって世界中を旅することとなる。

筋自体はありふれたものであるが、そこに描かれた挿話や事物の数々は非常に魅力的である、いわば千夜一夜のごとき正統的な幻想小説・奇譚である。その奇想はあまりにも折り目正しく、「無限の本」の出典元であるボルヘスの正当なる後継ともいえよう(・・・ってのは言いすぎだけど 笑)

「鉱物だけから作られた庭園」「禁書を埋めるために掘られた物語の井戸」「入れ墨により記された自分では読むことの出来ない書物」「首だけを土から出して無駄話を続け、話が途切れた瞬間にジャッカルに食われてしまう部族」「終わりなき性行為を中断した勃起の神が一服しながら書いた世界最長の性愛小説」などと、列挙するだけでも魅力は伝わるであろう。主人公に同行するのも、記憶を失った六本指の美少年、黒人の女海賊、陶器製の自動人形など、いかにもツボを押さえた感じ。まあ、結局作り上げられた本は、アレなんですが(笑

<癒し>のナショナリズム -草の根保守運動の実証研究

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究
著者 :小熊英二・上野陽子
発行年:2003年
出版社:慶応義塾大学出版会 
価格 :2400円


上野による「つくる会」系の民間団体に対する調査と、それについての小熊の解説からなる。基本的に上野の調査は「卒業論文」であるので、まあその程度のものです(笑 でも、この手の調査結果が一般の出版物として出されること自体は稀だと思うので、そこそこ意義はあるんでは。

おおまかに言うと、一般の「つくる会」シンパの人たちは「普通の市民」という自画像を持っていて、普通を自称しながらもその内容を明確に規定できず、否定的な他者である「サヨク」を「普通でないもの」として排除することで自分たちが普通であるというアイデンティティを保っているということ。そこでは「戦中派のリアリティ」や「天皇制」もまた排除されており、「反サヨク」という言葉・世界が同じことを前提することで結びついている心地よい共同体なのである。彼らは自分が普通であると立証してもらうことに飢え、話の通じる相手に飢え、そこでは話し合われる内容よりも話すという行為が重視されている。だから、周囲から排除の対象とならないように、その安心感を壊すような危険は回避されることとなる。

もっとも頷かされたのは、彼らにとっては常に「個か国家か」という二者択一になって、その中間にある地域の共同体や学校などが共同体のモデルとして想像されないという点。地域や学校は具体的なものとして知っているが故に幻滅し、国家は想像の共同体だから無制限な希望を託すことができるんだそうな。まあ、いまどき国家に何かを期待するなんざ奇特な人たちじゃあるわけだが(笑

聖母のいない国

聖母のいない国
著者 :小谷野敦
発行年:2002年
出版社:青土社 
価格 :1900円


アメリカ小説を読み解く13の論考を収める評論集。
初出は『ユリイカ』誌上において2001年一年間にわたった連載。
『風とともに去りぬ』が大衆小説と見なされる理由から始まり、「赤毛のアン」を受容する層の問題まで、テキスト分析というよりは書物を受容する社会の問題を中心に論じている。全体的な印象としてはフェミニズム批判という彼のいつも通りの傾向が色濃いが、フェミニズム的な性解放の論理が大多数の(その特権を享受できない)男女にとっては無意味であったことを指摘する彼の視点はやはり鋭く、実も蓋もない。

そういや、今になって気付いたが、実は小谷野敦って、あんまり文章が上手くないんだわ(笑 やっぱり売れっ子だから書きなぐっている部分があるんでしょうか。推敲ぐらいしなさい、プロなんだから。