みんな元気。

著者:舞城王太郎
みんな元気。


舞城王太郎の「みんな元気。」は、「何かを選ぶ」ということの暴力性をはっきりと描き出す。「何かを選ぶ」ということは「選ばれなかった可能性」を殺すということでもあるのだ。だが、舞城は「それでも何かを選ばないことには前に進めない」ことを示す。「みんな元気。」は、できるだけ暴力を避ける、という方向には進まないのである。舞城作品においては、行動に伴う暴力性は不可避であり、その点は否応なく受け入れるしかないのである。

舞城の欠点はその生真面目さにある。メッセージ性の強さと言い換えてもいい。常に小説の後半は思弁的となり、(彼の最大の武器である)前半のスピードや無茶な展開が最後まで持続しないのである。恐らく舞城が試みているのは、(ドタバタとして描かれる)現代的な「内面の不在」という場所に、近代的自我を再生させるということなのだろう。だからこそ舞城は『世界は密室でてきている』や『山ん中の獅見朋成雄』に見られるように教養小説の枠組みを「再利用」するのだ。そしてそれ故に、その物語は「内側」へと折りたたまれて終わることとなるのだ。

教養小説の再利用ということでは、『電車男』もそうである。あれは『感情教育』なのである。その底にある「倦怠」が我々に「選択」することを困難となさしめている。だからこそ『電車男』の冒頭には「暴力」と「暴力への対決」が配置されているのだ。だが、そのような個人の主体的な行動もまた、舞城作品でもそうであるように「支配的な価値観の強要」や「暴力の再生産」という構造を超えることができないのだ。近代的自我は「現代」へ抗うための武器として余りにも脆弱にすぎるのである。

(余談ではあるが、さとう珠緒には『ボヴァリー夫人』を読むことを勧める。)