「「カッコいい」のある風景─民俗学とその周辺にとっての’80年代─」

いまや「暴力でぶ」という二つ名で知られる大月隆寛であるが、かつては気鋭の民俗学者であった(という言い方は失礼ですね。今でも民俗学者です。「民俗学」なるものが今も存在しているのであれば)。そしてその同時期、大塚英志もまた民俗学的な用語をちりばめた文章によって名を知られるようになっていた。その時期の彼らが「同じような書き手」であると「メディア的」には見なされていたことについては、『うわさの本 (別冊宝島 92)』などの一連の宝島ムックを見るとよく理解できるであろう。
だが、大月は「ここ数年不幸にもその名を一般に知られるようになった大塚英志という時代の病」(「「カッコいい」のある風景─民俗学とその周辺にとっての’80年代─」 初出は『国立歴史民俗博物館 研究報告第34集』平成3年 『民俗学という不幸』所収)という強い口調で『少女民俗学―世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」 (光文社文庫)』(「朝シャンは禊ぎである」などの妄言で知られる)に代表される大塚の文章を批判してきた。

およそことばとそのことばによってつむぎ出されてゆくはずの論理というものに対するおそれも謙虚さも感じられないまま、それでも何かもっともらしいことを言い、そのことに責任をとる覚悟はかけらもなくただ「知識人」のふりだけはしておきたい、という大塚英志の病のさま
(「「カッコいい」のある風景─民俗学とその周辺にとっての’80年代─」)

僕が大塚英志を絶対に許さないのは、この時代、同じ民俗学に振り回されてきた者としていちばんやってはいけない安上がりの自己合理化を無反省に臆面もなくやってきている、ひとまずその一点からだ
(同上)

大月のこの論文は、80年代当時隆盛を誇ったニューアカデミズムという学問のスタイルと、その影響をもろに被った民俗学の落日を批判的に描き出す。(ニューアカ! それはまさに人文科学における「黒歴史」、もしくは余りにも軽薄な現代思想の受容。)
ニューアカというメディア主導の現象に於いて、民俗学の用語・概念も「現在を分析する」メディア言説の中に取り込まれていき、民俗学もまたニューアカ的なスタイルで「象徴」やら「構造」やらの分析の用語を多用することとなった。(そうやって民俗学はメディアにおいて消費されていったというわけだ。)

橋がかかっていれば「境界」、十字路があれば「辻」、柿の木は「周縁」、笠をかぶれば直ちに「異人」、便所やカマドは軒並み「他界」への入り口ということになるおよそ信じられないようなあてはめが、何か新しい民俗学の「方法」でもあるかのようにもてはやされ、事実そのようなあてはめだけを得意げに垂れ流す輩がそこここに出てきた

このような、小松和彦飯島吉晴鎌田東二といった人々への批判(私としては、かつての『異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)』あたりの言説をなかったことであるかのようにする小松の現在の姿にこそ苦いものを感じる)の文脈に於いて、とりわけ大月は大塚英志の分析の軽薄さを批判しているのである。

日常生活の局面での「もの」の使用法や使い回され方、そんな次元のあれこれを一応おさえておいた上で、それでもなおこのような象徴的というか、とにかく大文字のことばで上から網をかけるような「分析」を発動する、そういった手続きがあってしかるべき

と大月が言うように、そこで問題となっているのは「具体的リアリティ」である。(だが「歴史も経済も抜きにして社会や文化を語ることができるという幻想」との批判はややズレ手いる気がする。その言葉からは、マルクス主義歴史学における「リアリティの欠如」を批判する視点が逆に抜け落ちてしまう。)

その背景には

民俗学が理想のものとして想定してきたような民俗社会はもう目の前のものとしてほとんど存在しなくなっていたし、これまで蓄積してきた材料ならばすでに「書かれたもの」に変形され、定着されている

ということへの危機感があった。もはや「現地調査」をすることでは新しい「発見」はのぞめず、「現地調査」という作業は理論・モデルへのあてはめの儀礼以上の意味を持たなくなっていたのだ。そのような危機感があったからこそ、ニューアカの言葉に食いついてしまったというわけだ(そして「社会学」「人類学」や「歴史学」に接近することで生き残りを図ったのである)。もはや死んでいたのにもかかわらずそのような形で延命を続け、「他の諸科学に対しての方法論的独自性」を確立することができなかったことこそが、大月の指摘する「民俗学という不幸」の核心であるのだ。

さて、リアリティを重視する大月が「つくる会」に関わり、理論を「あてはめる」ことで現在を分析しようとした大塚が「戦後民主主義」を評価するという対立に、我々は何を読み取るべきなのだろうか。それは戦後の「ことば」の空疎さの問題である。「平和」「平等」「自由」すべてが実体を伴わない「ことば」だけなのだ。はじめにことばありき。「日本国憲法」という「ことば」にのみ起源を持つがゆえの空疎さ。その戦後の「ことば」を否定する大月は必然的に反-戦後的なもの、「かつてあった美しいもの」という別の幻想に向かうしかなかったのだ。「表層的ではない、主体的に獲得されたことば」によって語るべきと説く大月は、だがそのリアリティの出口を持ち得ないのだ。(「もはや民俗はない」と言ったとき、それは「かつてはあった」と言っているのと同じである。)

「文献史学」という「書かれたもの」に依存する歴史学への抵抗のモードとして民俗学は成立したのだと捉えるならば、つまりそれは「書かれたもの」という「視覚性」に対立する「聴覚性」=「語り」に依存する形でのリアリティの立て方である。そこにこそ民俗学のそもそもの問題はあった。
大月はまたこのようにも述べている。

方法としての実効性の次元とは別に、「現地調査」という作法にまつわって形成されてきたある種の特権性、神話性がその儀礼化という横滑りの腐敗にまつわって有利に働いたということには注意しておくべきだろう。言い換えれば、それはそれまで「現地調査」を方法として採用してきた学問領域における「調査」という「経験」の特権化の問題である。

ここにおいても宮崎事件以降「自分語り」にシフトしていく大塚との対立が見て取れる。「自分語り」とはすなわち「経験の特権化」である。W.オングが『声の文化と文字の文化』で指摘したように「声の文化」には「文字の文化」とは別種のエコノミーが働いている。「語り」とは「対話=双方向性」に基礎を置くが故に共同体という関係に依存し、それを特権化させる。そして、その共同体は「話者」と「調査者=民俗学者」という関係に移し替えられることで延命させられたのである。それゆえに民俗学は自前の理論を持てなかったのである。理論とは「文字の文化」に属するものであり、「声の文化」の共同体である民俗学の内部には成立しえないのだ。
結局、「空疎な言葉」に対置する形で「現実的なもの」を提示することではリアリティは得られないのである。「現実的なもの」が「現実である」根拠もまた「特権的な共同体」が共有する幻想の中にあるのであるから。「声」はリアリティを回復したりなどはしないのだ。