『私が語りはじめた彼は』

 著者:三浦しをん
私が語りはじめた彼は














激しい感情は書物と同じだ。どれだけ厚くても、いつか終わりがやってくる。僕はもう、激しさをすべて使いきってしまったから、はじまりも終わりもなく続いていくだけなのだ。
(「冷血」より)

「結晶」「残骸」「予言」「水葬」「冷血」「家路」の六篇からなる短篇集。
妻子を捨てて別の既婚女性と再婚した大学教授の周囲の人々を各篇で描く。だがその当事者たる二人は殆ど描かれることはなく、明確な像を結ぶことはない。そこにこの小説の狙いはあるだろう。
二人の既婚者の恋に振り回されるその周囲は、彼らのようには熱い情熱とは無縁に、ただ淡々と静かに毎日をこなしていく。それぞれ何らかの「疑い」を底に秘めたまま。家族であっても互いに何を考えているのか分からないということにおいて、家族小説とはミステリである。家族という藪の中、その分からなさを抱えたまま、彼らは愛ではなく理解を、「ことば」を求める。「ことば」にしても分からないのだから、「ことば」にされないならばなおさらに分からないのだ。(DQNな人々が「ことば」を信用せず、言葉なしで意を察することを要求するのと対照的である。)

私は伊都に言う。愛ではなく、理解してくれ。暗闇のなかできみに囁く私の言葉を、どうか慎重に拾ってくれ。
そしてまた、こうも言うだろう。
きみと話がしたい。きみの話を聞かせてほしい、と。
(「家路」より)

それはまた、冒頭に置かれた「寝取られた皇帝の復讐」*1の挿話が示唆するように、シェヘラザードを欠いた「千夜一夜物語」なのである。
「水葬」では、妻を捨てた村川教授の再婚相手である太田春美の娘・村川綾子に焦点が当てられる。話は依頼者を明かされぬまま綾子を見張る渋谷という探偵の手記という形を取る。全く地味で代わり映えのしない生活を続ける綾子が、家族への手紙を書くときだけは黒い服に着替えることに渋谷は興味をそそられる。接触した渋谷を綾子は「殺し屋」と思い、娘に夫を寝取られることを恐れた母親が雇ったのではないかと疑いを口にする。

この「代わり映えのしない生活を観察する探偵」という構造はある小説との類似を思い起こさせる。ポール・オースターの『幽霊たち (新潮文庫)』である。そこから読者はある疑いを抱くこととなるだろう。探偵を雇ったのは綾子自身ではないのか? 自分自身を観察させるために。

そして、次の「冷血」では、「水葬」の内容がひっくり返されることとなる。ここにおいて、この小説はメタフィクションの様相を呈してくることとなる。ここでは村川教授の前妻の娘・村川ほたるの婚約者・市川律を語り手として、彼が自殺した村川綾子の死の真相を探ることとなる。彼は浜辺に残された「殺し屋日記」の存在を知ることになるが、それは「綾子の創作」である可能性が高いと言われる(だが「実際に」渋谷という男が彼女の身辺に実在していたことも知る)。そして彼はこのような結論を導き出す。

村川綾子は、ただ消えていくのがいやだったのかもしれない。残された人間に、「自分」という物語を刻みつけていたかったのかもしれない。(・・・)村川綾子の死も、ノートの文字のあいだから、関係者の心の中に謎となって何度もよみがえる。
(「冷血」より)

死者について、覚えていることも、忘れ去ることも、等しく暴力的である。覚えていることは死者をその死後も変化させ続ける。生者は変わらないというわけにはいかないのだから。そこで死者は元の彼とは別人に変えられてしまうこととなる。だが、忘れ去ることは死者を完全に殺してしまうことである。そして、記憶を強いることもまた、同じように暴力的なことである。それが謎という形で提示されたとしても、それはある一つの語りを、物語を要求する。その物語が、ほんとうであればあるほど、それは暴力的であるといえるかもしれない。
だが、記憶や理解ということの不毛をしりつつも、それでも言葉を用いて接近するということ、そこに可能性を見出すべきなのだろうか。

*1:彼は疑念を与えることにより苦痛を長引かせる。それは「疑念」というもののこの小説での位置をも暗示している。