『オウバアキル』

オウバアキル














そして先人に倣って自らも「呪われた詩人」になることを夢見る。しかし、差し当たってリセに通う平々凡々たる生徒に過ぎない私は、呪いなどとは全く無縁で、常日頃、救いようのない自分の凡庸さを意識すると同時に、不満を漏らす権利は自分にはないのだとも感じている。なにせ暖かい寝床で眠り、腹一杯食うことのできる身分なのだから。 
(『サトラップの息子』 アンリ・トロワイヤ

先日、第10回中原中也賞三角みづ紀の『オウバアキル』が受賞しましたが、私にはどうしてもその良さが分かりません。というよりイヤな感じがぷんぷんします。過剰すぎる程の「私語り」。「好きな言葉・キチガイ」だなんて書いてしまうところも、イタい、イタすぎますw 

たとえば「帆をはって」と題されたこの詩。

ほうちょうで指を切った
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた

年をとった彼等
には
貢定できない
ものが

には貢定できる

(絶対がここにはある。)

ほんとうにイヤらしいですね。こういう高慢さを、年をとった私は肯定できませんw

地上には、神の前にこの世を正当化する使命をおびた正しき人間が36人いる。またつねにいた。それは足萎えのウーフニックたちである。彼らは互いのことを知らず、そしてたいへん貧しい。もし自分が足萎えのウーフニックであることを悟ると、その者はすぐに死んで、たぶんこの世のほかの場所にいる別の誰かがその者に替わる。足萎えのウーフニックたちは、それと知らずに宇宙の隠れた柱となっている。彼らがいなければ、神は人類を滅亡させてしまうだろう。気付かないままに、彼らはわれわれの救い手となっている。
(『幻獣辞典 (晶文社クラシックス)ボルヘス&ゲレロ)

彼女は自分の傷には饒舌であるのに、「足萎えのウーフニック」には気付かないのです。

選評は「一見したところでは日録風に身上雑事を日常的な言語で表現しているようにみえるが、じつは日々の生活にひそむ不安、現代における若者の心的状況を、鋭くふかく凝視した上で、逆にそうした心情をかろやかに平静にうたいきったことに、作者の豊かな才能を評価したのである」とあるが、どうもそこに「若者信仰」のようなものを感じてしまうのです。まあ「中原中也」賞ですからね、それでいいのかもしれませんが。

金原ひとみ蛇にピアス』への選評(「いま十代が何を考え、何をしたいかがよく表現されている点で時代の先鋭的な作品」と評した村上龍のアホさには頭が下がります。「私には現代の若もののピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解できない。選者の誰かは、肉体の毀損による家族への反逆などと説明していたが、私にはただ浅薄な表現衝動としか感じられない」という石原慎太郎の評は素直に「わからない」ことを認めていて潔かった。どんな小説であっても「わからない」ところは問題なのですがw)にも感じたのですが、「現代を描く」ってそういうことですかね? その現代には「私」しかいないのですか? どうしても古来から続く「若者」の病である「世界の狭さ」ばかりを感じてしまうのです。たとえそれが「鋭くふかい」ものだとしても(私はそうとも思わないのですが)、そういう自閉的な「狭さ」(それは詩業界の「第二芸術」的な狭さとも呼応しあう)を前にして一体読者はどうすればいいのでしょうか。「お前は苦しいかもしれないけれど、それって俺に何か関係あるの? お前のリストカットと俺の牛丼のあいだにどんな違いがあるというの?」と問うしかないのです。

ほとんどその日一日は、何一つ語るに足るほどの出来事もなく旅を続けたが、何にしても自分のたくましい腕力の真価を試すべき相手に一刻も早く会いたいと望んでいたのだから、これにはさすがに失望を感じた。
(『ドン・キホーテセルバンテス

現在の僕は「精神」というものを失くしている。ニイチェ、ドストエフスキー、ショーペンハウア、ボオドレエル、ランボの住むオリンポスの山へはどうしても登れないで平野で呼吸しているだけである。その意味で僕は萩原哲学から追放されてしまったことになるだろう。
(「MAISTER萩原と僕」西脇順三郎

だが、それでいいのです。その「なにもない」ところから始めれば。そこから始めるしかないのです。そして、その「なにもなさ」は「心情」という言葉で呼びうるものではありません。

「最新の高性能の製品という感じだよ」・・・「タイプライターとか電気回路とか」
「好かないのね」
「嫌っていることはないね。興味深い、かな。ああいう人間こそ未来だよ」
「だけど実感が湧かないわ。どういう人なのか、ぜんぜん伝わってこないのよ」
「そこがまさにポイントさ。”どういう”人でもないのさ。三年生のとき同じクラスにいた奴を思い出すよ。・・・誰にも嫌われていなかったけど、かといって誰に好かれてもいなかった。次の夏によそへ引越していって、秋に四年生の学期がはじまって奴のことを思い出そうとしたら、顔が浮かんでこなかったよ。何をしていたかも、全然思い出せなかった。そういう奴がいたってことしか思い出せなかった」
「少なくともその人は”いた”わけよね。それは大きいわよ。私としてもそこが拠りどころよ」

(『マーティン・ドレスラーの夢スティーブン・ミルハウザー

詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味をもって意識さす一つの方法である。
(『超現実主義詩論』西脇順三郎

さあ、ランボオを埋葬しましょう。二度と蘇ることのないように。
われわれは「呪われた詩人」ではないし、もはやそのようなものを必要としていないのだから。


三角みず紀のブログ:ニンゲンイジョウ
http://blog.livedoor.jp/misukimiduki/

ケータイ詩のサイト:オウバアキル社
http://k.fc2.com/hp.cgi/ouva_akilu/

追記:これまたキツいなあ。おなかいっぱい。ういっぷ。。
http://blog.livedoor.jp/misukimiduki/archives/50040128.html