『感じない男』

感じない男 (ちくま新書)
森岡正博
ちくま新書 
2005年2月




「性犯罪を犯さないがロリコンの嗜好を持つ男」*1という今まで語られることの少なかった「ロリコンの中心層」を正面から描いた点で希有な一作である。今までの「ロリコン=性犯罪者」「=大人の女に相手されない男、大人の女に向き合えない男」という紋切り型を回避して、森岡は「ロリコン」「制服愛好」の背景を考察する。

その考察の中心となるのは、「男の体」を自己肯定できない男、快楽を得ることが出来ない射精、という「男の自己否定」である。それゆえに「大人の男になりたくなかった私」を否定し、「少女の体」を通して思春期における性の分化を生き直すのである。それは、少女の体をした「もうひとりの私」に私の子供を産ませ、「私自身」を私以外(つまり母親)を介入させずに産まれさせること。つまり、「自分自身の体を愛したい」というセクシュアリティの自閉世界なのである。(オタクが自己の外見に無頓着であることも、このことから説明される。少女キャラへの同一化によって、「本当の体」ではない現実の体に対しては無頓着となるのである。)

これと関連する発言として、『ミドルセックス』(*2)巻末の柴田元幸による解説に著者ジェフリー・ユージェニデスへのインタビューとして引かれているものがある。

僕らはみんな、思春期に変身を遂げ、自己発見のプロセスをくぐり抜ける。両性具有者を使ったのは、万人に共通の体験から隔たった物語を語るためではなく、誰にでも覚えのある物語を語るためだったんだ。

森岡の描く「ロリコン」とは「ほんとうは女」という意識であり、それは笙野頼子が『金毘羅』で語った「ほんとうは男」という言葉(このエントリを参照のことhttp://d.hatena.ne.jp/garando/20050426/p1)と表裏をなしていると思われる。この点からも笙野のあれほどの「ロリコン」への敵視も論じることが出来るのではないだろうか。

森岡は、結論として「セックスに(未知のものに)過大な期待をしないこと」「自らの不感症を認め、身体をそのようなものであると肯定すること」を示すが、その結論についてはどんなだかなあという気もする。それじゃ「ロリコン」の「非モテ男」は救われないということになるのでは。

(それにしても、森岡大塚英志の『少女民俗学―世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」 (光文社文庫)』を「名著」と言っているのには笑った。大月隆寛がアレを「大ヨタ」と言い、「大塚英志を絶対に許さない」と発言した話についてはまた別のエントリで。)

*1:だが「性犯罪を犯すロリコン/犯さないロリコン」という枠組み自体が陥穽を孕んでいることに注意。http://yaplog.jp/garando/archive/96

*2:女の子として育ち、男として大人になった両性具有者を中心としたファミリーサーガである