『金毘羅』

金毘羅
笙野頼子
集英社
2004年10月
2000円


この小説の末尾には、作者によるこのような断り書きが記されている。

「この小説は異端、或いは反主流の学説を多く根拠にした空想の含まれる作品です。その他の研究所、論文の通りにはなっていませんのでご注意下さい。また、伊勢の古墳について乱心した主人公が妄想する部分は全てフィクションです。実在の古墳とは何の関係もありません。男の神がいたとされる古墳は架空のものです。」

「この小説は(・・・)空想の含まれる作品です」。だが「この小説はフィクションです」とは作者は記していないことに注意すべきであろう。この小説はひとつの問いかけとなる。つまり「虚構としての私小説はどこまで可能か」という問いである。
この小説において作者・笙野頼子と等号で結ばれるように措定された主人公は、自らを「死んだ女の子の体に宿り、人間として育てられた金毘羅」であると語り始める。周囲とうまく関われず、家族から「男」であることを要求されつつ「女」であるという矛盾を抱えた過去を語りつつ、それは「率直な語り、告白」を回避していく。

p69
 そしてその義務の中心にあるのは「女である事」、─思春期までにもう、どうでもいいけれど、というような感じで、嫌な事が一杯ありました。でももっと嫌な事は自分の性別を理解した事でした。自分が女だという事を認めなくてはならないように刻々となっていく。─「いいじゃん女」とお思いでしょうか。そうです。いいのです。でもいろいろまずかった。先程述べたようにいろいろと困ったお子さんだった事もあるし。その他には殺意や何かが凄く湧くので困っていた。その一方で自分の殺した大量の虫や何かの魂はどこへ行くのだろうと考えてもいたし。
 まあそういう追い詰められた状態だったのです。というのも、─。
 二歳年下の弟が生まれるまで私は「長男」扱いをされていたのでした。体は女でも社会的に長男として扱われた。というとなんだか逆三島由紀夫みたいですが、しかし服装等は別に男装じゃない。ただ親は私にお前は男だといい続けた。それだけの事です。別に珍しいケースとは思いません。長男娘とかそういう言い方でいわれる状態ではないでしょうか。で、やがて弟が生まれたので私は「男ではなくなり」、「いらなく」なりました。
 そこで子供のない親戚になぜか私を養女に出す事になった。でもそこと親との関係は複雑微妙です。葛藤がありすぎる。しかも相手方は別に私を欲しいなどと言っていない。


p72
 「本当は男」である女というのはいろいろ課題を課せられているばかりではない。現実の差別社会の矛盾を全て受け入れながら、その矛盾から一切目を背けていなければならない、つまり魂がぶっ壊れていなければ成立し得ないのです。
 しかしそれでもそれは親たちにとってやむを得ぬ選択でした。彼らは社会の秩序に則って正しく最善を求めたのだ。つまり「女だから仕方ない」と両親は言うまいとしていたのです。そこで彼らは私を「本当は男」にしようとした。しかし、その「本当は男」という存在は実に、何の救いもなかった。

結局のところ主人公は、「本当は男」という言葉と「女である肉体」の距離を埋めるために「金毘羅」というフィクション=物語を採用するのである。「本当は性別もなく、人間でもない金毘羅」というフィクション。このフィクションを出発点に置く事により、語り全体がフィクション化していく。だが、それは「信頼できない語り手」というのとはまた違う効果を生んでいる。それはむしろ、「オデュッセイア」において目を潰されたサイクロプスに「ウーティス」つまり「誰もいない」と自ら名乗るような、そういう地点から出発するアイデンティティのあり方である。

p32
 本当の金毘羅は現世にはやって来ない。だから、僭称し通すのだ。


p34
 神はいますよでも注意してください。
 オカルトや超能力のところには絶対いないですから。超越者に憧れても虫ケラのように殺されるだけの事ですよ。たかが超越者を名乗る人間にねえ。
 え、そんなの主観じゃない言ってるあんたの、だって、ええ。
 そうですそのとおりですよ。人間の側から言えばこれは妄想です。私と同じ事を言う人がいても信用してはいけない。へっへー。

そして主人公はその物語の虚構性(つまりはアイデンティティ自体の根拠のいかがわしさ)について完全に承知しながらも、それにすがるのである。そのキーワードとなるのが「祈り」「信仰」である。

p116
 金と科学の国、とはいえ金毘羅的なものをすたれさせる原因は別に戦後だけではなく明治も同じでした。そもそも国家の根源にキリスト教、もとい天皇という迷信があり、差別や非合理な制度が一杯あった。それを迷信と呼ばない以上、人々の理性は曇ったままなのです。そして理性の彼方で本来健全に機能するはずの信仰というものは国家的迷信に洗脳された愚民の手で隠され、戦前は全部ヤマト系の神々の下に一本化系列化されていた。
 そして戦後、当の国家的迷信を隠蔽するために国家的神話を表舞台に出す事はタブーになった。「心の問題」を「ないこと」にしたのです。
 それ故、インテリから「ないこと」にされ野放しにされた「心の問題」・信仰の方は結局迷信化し、お金と数字*1を伴う、けったいな理論を挟まれた贋科学に化けた。そして戦前、ただ一種類だった愚民は、二種類に分かれた。ひとつは国家的迷信に洗脳された愚民、もうひとつはその国家的迷信を信じ抜いている普通の愚民を冷笑し、しかしなぜ信じているかという事を解析する能力はなく、ただ自分たちだけは違うとひたすら思い込んで、そして贋数学贋科学の世界に逃げ込んでいる腑抜け的愚民だった。そういう人達が宗教にはまると高級な宗教思想だけを問題にして祈らないのである。だってもし祈れば、それは神の前の凡庸で普遍的な自分、つまりは私小説の「私」の肯定になるから。


p192
サラタヒコは父親的な神でその「託宣(単なる心に浮かぶ強迫観念的イメージである)」はいきなり抽象的に来て、絶対命令というところがあった。怖い。物凄く、閻魔より怖く、しかしそれはいわゆる良心に則れば正しい意見ばかり。例えば、─。
 「この作家に私の本の宣伝をして欲しくありません」と私は公の席で大声で言うように命じられたことがあった。オカルトを肯定し他人のオリジナリティを侵犯する行いをしている人だからという理由で。無論、そこまですれば「なんという高慢な」という事になって私が「正しい」事をしたのだとは誰も思っていない。多くの人間は失われました。でもするしかなかった。それは神に照らしてするべき行為だから。また極度な女性差別を肯定する形で利益を受ける事も、無用な動物実験をする企業のPR誌に書く事も禁じられていた。後者はともかく、前者は(極端なものに限定していても)凄まじく世間を狭くし収入を減らした。でも結局それは私がそうしたかったという事に過ぎなかったのだ。
 そうやって自分のするべき事とそうでない事と生きている位置を確かめてずっとやって来ました。神の名の下に損失に耐え、苦しみに意味を見出した。生きる理由も。神は必用でした。だってどこに住むにしろそこにいる正当性は私にはありませんから。同居の家族というのは猫だけです。結局私をつなぎ止めるのは「信仰」なのでした。「信仰」に繋がれて私は生きていた。金と数字の世の中でしたい事をして、捨て身で書いてそれを読んで貰おう、自分の死後も残るべきものなら残るはずと思って続けて来た。でもこういう言い方は既にいわゆるお文学からはみ出ています。真面目すぎるのだ。そしてまたお文学の嫌いなまともな純文学の方からだって完全に完全にはみ出ています。
 なんと言ってもこれじゃ土俗です。金比羅です。
 教団なき女教祖の独白、それはただの○○。インテリはアーメンをやるか南方で感動するか、オウムに肩入れしてみせなくてはならないのだし。
 インテリから見た時、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金比羅なんだし。
 メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中に私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などは元よりそうです(だってあの人達は学識があるし折口は変な道祖神とか嫌いみたいだし)。

アイデンティティを効果すなわち、産出されるもの、生成されるもの、として捉え直すと、アイデンティティのカテゴリーを固定した土台とみなす立場によって排除されてしまった<行為主体>の可能性が開けてくる」と、ジョディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』の中で述べている。つまり、固定化された「名詞的」なアイデンティティから出発するのではなく、行為を変形し反復する<行為主体>の只中に「動詞的」に形成し続ける、ということ。そしてその「行為」が、この小説の場合に於いては「祈り」であり「信仰」であり「金毘羅」なのである。

だが、笙野のこの戦略は当然ひとつの陥穽を孕み続ける。虚構化により棚上げされた「私」から出発するとしても、その虚構自身=金毘羅はつねに無傷のまま保持され続けるのである。金毘羅について語る金毘羅は、どこまでいっても金毘羅であり続ける。金毘羅思う故に金毘羅あり。なんとこれではデカルトでありませんか。主人公の批判するオカルトではありませんが。そのような「行為主体」は、他の全てを「対象」として所有する。そうして所有された他者はもはや自己の一部であり、そういう意味でこの「行為主体」は他者・外部を持たない。「敵」として意識されるものであれ、それはもはや自己の影であり、金毘羅の意識に組み込まれているのである。(これこそが後述する「笙野の限界」に繋がるのであろう。)
でも笙野に言わせると、こういうことなんだそうな。

p110
 私の、金毘羅の目から見れば、つまり例えば文学の世界で語るべき事が何もないと言っている人間は新しく語るべき現実から目を背けているだけだと判りました。また「私などない」と言っている人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう抜けた事をいうのだと見抜けました。例えば仮に幼女のパンツに手を突っ込んだりしても「私などなければ」責任も取らなくていいという意味に過ぎないのです。「私などない」と言う奴ほど、「お前だけを殺す」と言われれば焦るはずです。
 大量死で文学が無効になったという人間も爆撃テロで文学が無意味になったという人間も自分は死んでいません。それとも出家でもする気なんでしょうか。
 言われた言葉にこだわり続けるこの金毘羅作家の怒りを、ナルシズムと呼んで揶揄する評論家等は、自分たち人間が言語にどれほど鈍感かは判らないのです。でもそれが人間の性ですから。結局彼らは人間の傷付きやすいエゴを守るために、金毘羅特有の言語固執本能を、ナルシズムと呼んで敵視しているだけだ。

それにしても笙野は大塚英志を相当に嫌いなんでしょうねw
http://www.bungaku.net/furima/fremafryou.htm
この作品では「ロリコン」が「私小説を否定するもの」や「オカルト」と同一化されるような形で盛んに攻撃されています。「女」に対する差別をさけぶ笙野が、「ロリコン」という物言いが差別的である事に自覚的ではない(・・・わけはないよなあ。分かってて差別してるんだよなあ)ということは、笙野のフェミニズムが笙野個人のためだけにあって、他の人間のフェミニズムや「人種差別」「階層差別」、ましてや「オタク差別」と連携し得ない自閉的なものである事を伺わせる。個人のルサンチマンから生じたものが社会に目配せしながらも再び個人に回収される、このあたりが笙野の限界であるのかもしれない。付け加えるならば、「虚構」という自我の城に籠城する清教徒的な潔癖さこそ、笙野と「電波男」との共通点と言えるのでないだろうか。

p67
 十二歳まで、私は自分を本当に男だと思っていました。無論、体は女ですけど。
 地上に遣わされたカウンター神の子、金毘羅の使命、それは、結構間抜けでした。つまり「私は女だ。女の体を持ってしまったんだ」と思い知る事に全力を尽くす。こういう不毛な作業にほぼ半生を費やしたのですから。ええ、普通人間はそんな事最初から判っています。でも金毘羅は判らない。一から始めて根源的問題を解析する。凝り性なんですかね、でも相当長い事思いこんでいました。「私は本当は男なんだいつか男になる」って。
 そういう神的全能感を乗り越えるというたったそれだけの事、自分がマイノリティとされてしまう側なのを思い知る事、これが青春から中年までの全てでした。そしてその後は「女である自分に注がれる外界からの侮蔑が消えない、どうしても消えない」という事を思い知る修行の連続であった。
(略)
 つまり私が乗り越えられない侮蔑の発生源とは表面戦前とは違うのだと男女平等を装いながら、実は女を小馬鹿にする事で成立しているような戦後の建前主義国家だったから。そして国家とは戦前だって戦後だって結局金毘羅にとっては国家神道やってる郷里伊勢の事だったから。そして伊勢に対抗するものも、実は全国的に言うとそれは金毘羅だから。
(略)
 それ故に小さい神、粒々の神、小さい悲しみ、粒々の怒り、こそ金比羅の中では立派なものなのでした。国家などという大きなものに対しても自分という女への侮蔑という小さきものから起こして、自分の中で教義を作れる程の大きいルサンチマンを溜めていくべきだった。それでこそカウンター神としては「偉大」なのだった。そうなのです。
 金比羅の仮想敵は決してデバガメや痴漢やロリコンのような小さいものなどではありませんでした。つまり相手は極端な話折口信夫です。


p224
 死んだってどうって事ないから無理に死なないというのも金毘羅ですし、また肉体がないから言葉、プライド、孤立を大切にする、だからそのためにだったらわりとぱっと死ぬ、というのもそういう事情からです。
 随分いろいろな金毘羅があるとお思いでしょうか。しかしそのどれも全部金毘羅です。そしてその割りには個体個体の差があんまりなんだかぴんと来ないなあとお思いでしょう。
 そうです、そうです。金毘羅とはシステムだ、というのは実はそういう事です。私小説の私が全部違うようにそれは違います。
 そしてまた同時私小説の中の「私」、つまり戦後の「ロリコン」達が口を極めて罵る凡庸な「私」が、ひとつひとつその「私」の世界の中で極めて大切であるように、金毘羅に私と名乗らせている、ひとりひとりの金毘羅の私、生は大切なものなのです。但し、─。
 それが徹底的に判るのは金毘羅が人間に宿った時だけです。
(略)
 金毘羅の本分、高慢も孤立も人間の体で徹底する事はまず不可能です。それ故に激しく死にたくなる、同時にまた孤立の砦である体は金毘羅の大切な城になってしまう。人間に宿る時、その矛盾の上に金毘羅は生きなくてはならないのだ。

だが、笙野のルサンチマンの根っこにあるのは『電波男』同様(*2)の、美醜という「お仕着せの」制度の問題なんだろうな、という気はする。だが美醜を単に「制度」の問題とするのはいささか軽率であろう。たとえばそこには「まなざしの暴力性の問題がある。「SHOT」という単語が「撮影」と「銃撃」という意味を同時に持つように、その根底には攻撃性が孕んでいるとマーティン・ジェイは述べている。暴力の根底にある視覚中心性。なぜ我々は醜い(とされる)者に暴力的であるのか。もしくは、醜さは我々の暴力性をいかにして「欲情」させるのか。そこには恐らく性的な負荷があるのだ。不具者がエロティックなように、醜い者もまたエロティックである。そのエロスにこそ暴力性は宿る。なにせ「エロスは黒い神」なのだから。おそらくはエロスという他者の作用に背を向けているこそが笙野の失敗なのではなかろうか。

p104
 髭を生やしギターをさげたデブのロリコンがいて十二歳の私に声をかけました。親がちょっと目を離した隙の事でした。大きい私を十五六歳と思っていたのかもしれない。(・・・)当時はロリコンという言葉はなくて子供は全て「気持ち悪い人」とか中には「悪い人」などと呼んでいたのでした。変だなー、と思いながら私はすーすーと後ずさっていただけです。逃げ際に横腹を叩かれました。相手の優越感丸出しでおざなりな態度というものにむかつきました。その邪魔な体とギターを蹴り倒して海の向こうにヒレをフりたいと思いました。夏の直前だった。ロリコンの目は「ブスが」と言っていた。


p216
 なんだあ、これは醜いアヒルの子のお話なんだな、と。いえいえ。
 結局そこまで露骨な話にはなりませんでした。だってそもそも人間がもし私の姿を見たら決してアヒルが白鳥を見たようには憧れないはずだし。でも醜くても十分、というか私を醜いと呼ぶ方がおかしいと思った。つまりもし私が人間に少しだけ譲歩してやるとしたら、私は醜の美しさを極致まで発揮した存在ですと言うしかない程なので。美醜の基準とはまさに、お上や「ロリコン」が勝手に決めたものに思えたので。そう、私こそは、中央の権力者が異形として排斥する、カウンター神のひとつの頂点を究めた存在なのであった。醜いアヒルの子はすくすくと醜く育ったのだ。(*3

*1:「交換可能」であることの拒否するための戦略としての「極私的な信仰」「主体」、つまり「貨幣」の根拠への不信についても、大塚との純文学論争の絡みで論じる必用があるだろう。

*2:笙野とオタクとの連携不能性については、オタクの側の問題もある。彼らは醜男を差別する女性を批判しつつも、その女性観は驚く程保守的で、「美少女」への愛着に見られるように女性の容貌を重要視する。その非対称の構造にオタクの多くは自覚的ではないが故に、笙野は更に苛立つのだ。

*3:笙野のルサンチマンはむしろ宅間守に代表されるようなDQN的なそれと親和性が高いように思われる。その考察のためには中原昌也あらゆる場所に花束が…』も参考になるであろう。

 しかし、ここまで人間は醜くなれるものなのか・・・いやはや、骨の髄まで・・・これはいわば限界への勇気ある挑戦。穏やかであろうとか、少しは美しく見られようとかいう欲望を、彼女は物心ついた時から憎しみを持って放棄したに違いない。小児期の理想主義的博愛の世界観と共に冷酷に葬ったのだ。 
なにが美しいのか、美しくないのか・・・その美的価値基準を他者から押しつけられることに彼女は大胆にも断固として抵抗しようというのだ。それが納税と同じく文明社会に係わる者のルールだというのなら、問答無用に全てを徹底的に破壊すべきだと声高に己の心の中だけで独白することが習慣化・・・勿論、この主張のためなら彼女は残虐な殺人すら厭わない。初めは民衆にとって他人事であった筈の醜さの定義がいきなり、顔が皺だらけで髪が薄くなったり腹が突き出て肉が弛んだ者までをも含み、より多くの(中年層を中心とした)人々の参加が期待される。彼らの言わんとする、醜さの中に恥辱よりも栄光を見出そうとする魂の渇仰は、万人に受け入れられないとは必ずしも云えぬ。だから美人コンクールの落選者から優勝者までが対象の、顔面破壊を中心とした暴力行為を全員揃って反復せよ。主催者から簡単に名簿を入手できたので、美人村襲撃のために無統制な醜悪の軍隊が駅前ロータリーに集結。言語でない何かをわめき散らし、互いに抱き合う。こうでもして視線がすれ違わないと、互いの醜さに嫉妬して理由なき流血を呼ぶ内部抗争にも発展しかねないからだ。彼らを鎮圧する戦術はない。
 いずれにせよ、この醜さは”何もかも浄化されて美しくあれ”と強要する文明への怒りの異議申し立てなのだ。
『あらゆる場所に花束が・・・』p50