みんな元気。

著者:舞城王太郎
みんな元気。


舞城王太郎の「みんな元気。」は、「何かを選ぶ」ということの暴力性をはっきりと描き出す。「何かを選ぶ」ということは「選ばれなかった可能性」を殺すということでもあるのだ。だが、舞城は「それでも何かを選ばないことには前に進めない」ことを示す。「みんな元気。」は、できるだけ暴力を避ける、という方向には進まないのである。舞城作品においては、行動に伴う暴力性は不可避であり、その点は否応なく受け入れるしかないのである。

舞城の欠点はその生真面目さにある。メッセージ性の強さと言い換えてもいい。常に小説の後半は思弁的となり、(彼の最大の武器である)前半のスピードや無茶な展開が最後まで持続しないのである。恐らく舞城が試みているのは、(ドタバタとして描かれる)現代的な「内面の不在」という場所に、近代的自我を再生させるということなのだろう。だからこそ舞城は『世界は密室でてきている』や『山ん中の獅見朋成雄』に見られるように教養小説の枠組みを「再利用」するのだ。そしてそれ故に、その物語は「内側」へと折りたたまれて終わることとなるのだ。

教養小説の再利用ということでは、『電車男』もそうである。あれは『感情教育』なのである。その底にある「倦怠」が我々に「選択」することを困難となさしめている。だからこそ『電車男』の冒頭には「暴力」と「暴力への対決」が配置されているのだ。だが、そのような個人の主体的な行動もまた、舞城作品でもそうであるように「支配的な価値観の強要」や「暴力の再生産」という構造を超えることができないのだ。近代的自我は「現代」へ抗うための武器として余りにも脆弱にすぎるのである。

(余談ではあるが、さとう珠緒には『ボヴァリー夫人』を読むことを勧める。)

『靖国問題』

著者:高橋哲哉
靖国問題 (ちくま新書)
帯には「哲学で斬る「靖国」」とあるが、どこが「哲学」やねんw
手法としてはむしろ「言説史」的といえるのでは。
以下、本書のまとめに私の意見を付記する。






1・感情の問題
靖国のシステムの本質が、国家が国民の生と死に対し最終的な意味づけを提供し、戦死の悲しみを喜びに逆転させる「感情の錬金術」にあると指摘。そこでは戦争のおぞましさや悲惨さといったイメージが拭い去られ、国のために死んだ名誉の死者として顕彰される。それによって戦死者の家族の不満が国へ向かないようにし、次の戦争でも国へ命を捧げる兵士を動員できるようにする。
それに抵抗するためには、「最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと。悲しさやむなしさやわりきれなさを埋めるために国家の物語、国家の意味づけを決して受け入れないことである。「喪の作業」を性急に終わらせようとしないこと。とりわけ国家が提供する物語、意味づけによって「喪」の状態を終わらせようとしないこと」である。

国家による意味づけを受け入れないことについてはその通りなのだが、「自然な感情」って何?w
その「自然な感情」が「自然」であることは何によって担保されているのであろうか。その「物語」が「物語」であるとはどうしていえるのか。それを示しておかないと、今度は「作られた自然」に騙されると思うのだが。ここでは死の意味づけに対する「最終的審級」の問題が意図的にはぐらかされているのだ。

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『私が語りはじめた彼は』

 著者:三浦しをん
私が語りはじめた彼は














激しい感情は書物と同じだ。どれだけ厚くても、いつか終わりがやってくる。僕はもう、激しさをすべて使いきってしまったから、はじまりも終わりもなく続いていくだけなのだ。
(「冷血」より)

「結晶」「残骸」「予言」「水葬」「冷血」「家路」の六篇からなる短篇集。
妻子を捨てて別の既婚女性と再婚した大学教授の周囲の人々を各篇で描く。だがその当事者たる二人は殆ど描かれることはなく、明確な像を結ぶことはない。そこにこの小説の狙いはあるだろう。
二人の既婚者の恋に振り回されるその周囲は、彼らのようには熱い情熱とは無縁に、ただ淡々と静かに毎日をこなしていく。それぞれ何らかの「疑い」を底に秘めたまま。家族であっても互いに何を考えているのか分からないということにおいて、家族小説とはミステリである。家族という藪の中、その分からなさを抱えたまま、彼らは愛ではなく理解を、「ことば」を求める。「ことば」にしても分からないのだから、「ことば」にされないならばなおさらに分からないのだ。(DQNな人々が「ことば」を信用せず、言葉なしで意を察することを要求するのと対照的である。)

私は伊都に言う。愛ではなく、理解してくれ。暗闇のなかできみに囁く私の言葉を、どうか慎重に拾ってくれ。
そしてまた、こうも言うだろう。
きみと話がしたい。きみの話を聞かせてほしい、と。
(「家路」より)

それはまた、冒頭に置かれた「寝取られた皇帝の復讐」*1の挿話が示唆するように、シェヘラザードを欠いた「千夜一夜物語」なのである。

*1:彼は疑念を与えることにより苦痛を長引かせる。それは「疑念」というもののこの小説での位置をも暗示している。

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「「カッコいい」のある風景─民俗学とその周辺にとっての’80年代─」

いまや「暴力でぶ」という二つ名で知られる大月隆寛であるが、かつては気鋭の民俗学者であった(という言い方は失礼ですね。今でも民俗学者です。「民俗学」なるものが今も存在しているのであれば)。そしてその同時期、大塚英志もまた民俗学的な用語をちりばめた文章によって名を知られるようになっていた。その時期の彼らが「同じような書き手」であると「メディア的」には見なされていたことについては、『うわさの本 (別冊宝島 92)』などの一連の宝島ムックを見るとよく理解できるであろう。
だが、大月は「ここ数年不幸にもその名を一般に知られるようになった大塚英志という時代の病」(「「カッコいい」のある風景─民俗学とその周辺にとっての’80年代─」 初出は『国立歴史民俗博物館 研究報告第34集』平成3年 『民俗学という不幸』所収)という強い口調で『少女民俗学―世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」 (光文社文庫)』(「朝シャンは禊ぎである」などの妄言で知られる)に代表される大塚の文章を批判してきた。

およそことばとそのことばによってつむぎ出されてゆくはずの論理というものに対するおそれも謙虚さも感じられないまま、それでも何かもっともらしいことを言い、そのことに責任をとる覚悟はかけらもなくただ「知識人」のふりだけはしておきたい、という大塚英志の病のさま
(「「カッコいい」のある風景─民俗学とその周辺にとっての’80年代─」)

僕が大塚英志を絶対に許さないのは、この時代、同じ民俗学に振り回されてきた者としていちばんやってはいけない安上がりの自己合理化を無反省に臆面もなくやってきている、ひとまずその一点からだ
(同上)

大月のこの論文は、80年代当時隆盛を誇ったニューアカデミズムという学問のスタイルと、その影響をもろに被った民俗学の落日を批判的に描き出す。(ニューアカ! それはまさに人文科学における「黒歴史」、もしくは余りにも軽薄な現代思想の受容。)
ニューアカというメディア主導の現象に於いて、民俗学の用語・概念も「現在を分析する」メディア言説の中に取り込まれていき、民俗学もまたニューアカ的なスタイルで「象徴」やら「構造」やらの分析の用語を多用することとなった。(そうやって民俗学はメディアにおいて消費されていったというわけだ。)

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『オウバアキル』

オウバアキル














そして先人に倣って自らも「呪われた詩人」になることを夢見る。しかし、差し当たってリセに通う平々凡々たる生徒に過ぎない私は、呪いなどとは全く無縁で、常日頃、救いようのない自分の凡庸さを意識すると同時に、不満を漏らす権利は自分にはないのだとも感じている。なにせ暖かい寝床で眠り、腹一杯食うことのできる身分なのだから。 
(『サトラップの息子』 アンリ・トロワイヤ

先日、第10回中原中也賞三角みづ紀の『オウバアキル』が受賞しましたが、私にはどうしてもその良さが分かりません。というよりイヤな感じがぷんぷんします。過剰すぎる程の「私語り」。「好きな言葉・キチガイ」だなんて書いてしまうところも、イタい、イタすぎますw 

たとえば「帆をはって」と題されたこの詩。

ほうちょうで指を切った
止まらない血
の向こうの
肉の切れ目の断片
に私
が見えた
確かに私は生きていた

年をとった彼等
には
貢定できない
ものが

には貢定できる

(絶対がここにはある。)

ほんとうにイヤらしいですね。こういう高慢さを、年をとった私は肯定できませんw

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『感じない男』

感じない男 (ちくま新書)
森岡正博
ちくま新書 
2005年2月




「性犯罪を犯さないがロリコンの嗜好を持つ男」*1という今まで語られることの少なかった「ロリコンの中心層」を正面から描いた点で希有な一作である。今までの「ロリコン=性犯罪者」「=大人の女に相手されない男、大人の女に向き合えない男」という紋切り型を回避して、森岡は「ロリコン」「制服愛好」の背景を考察する。

その考察の中心となるのは、「男の体」を自己肯定できない男、快楽を得ることが出来ない射精、という「男の自己否定」である。それゆえに「大人の男になりたくなかった私」を否定し、「少女の体」を通して思春期における性の分化を生き直すのである。それは、少女の体をした「もうひとりの私」に私の子供を産ませ、「私自身」を私以外(つまり母親)を介入させずに産まれさせること。つまり、「自分自身の体を愛したい」というセクシュアリティの自閉世界なのである。(オタクが自己の外見に無頓着であることも、このことから説明される。少女キャラへの同一化によって、「本当の体」ではない現実の体に対しては無頓着となるのである。)

これと関連する発言として、『ミドルセックス』(*2)巻末の柴田元幸による解説に著者ジェフリー・ユージェニデスへのインタビューとして引かれているものがある。

僕らはみんな、思春期に変身を遂げ、自己発見のプロセスをくぐり抜ける。両性具有者を使ったのは、万人に共通の体験から隔たった物語を語るためではなく、誰にでも覚えのある物語を語るためだったんだ。

森岡の描く「ロリコン」とは「ほんとうは女」という意識であり、それは笙野頼子が『金毘羅』で語った「ほんとうは男」という言葉(このエントリを参照のことhttp://d.hatena.ne.jp/garando/20050426/p1)と表裏をなしていると思われる。この点からも笙野のあれほどの「ロリコン」への敵視も論じることが出来るのではないだろうか。

森岡は、結論として「セックスに(未知のものに)過大な期待をしないこと」「自らの不感症を認め、身体をそのようなものであると肯定すること」を示すが、その結論についてはどんなだかなあという気もする。それじゃ「ロリコン」の「非モテ男」は救われないということになるのでは。

(それにしても、森岡大塚英志の『少女民俗学―世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」 (光文社文庫)』を「名著」と言っているのには笑った。大月隆寛がアレを「大ヨタ」と言い、「大塚英志を絶対に許さない」と発言した話についてはまた別のエントリで。)

*1:だが「性犯罪を犯すロリコン/犯さないロリコン」という枠組み自体が陥穽を孕んでいることに注意。http://yaplog.jp/garando/archive/96

*2:女の子として育ち、男として大人になった両性具有者を中心としたファミリーサーガである

『金毘羅』

金毘羅
笙野頼子
集英社
2004年10月
2000円


この小説の末尾には、作者によるこのような断り書きが記されている。

「この小説は異端、或いは反主流の学説を多く根拠にした空想の含まれる作品です。その他の研究所、論文の通りにはなっていませんのでご注意下さい。また、伊勢の古墳について乱心した主人公が妄想する部分は全てフィクションです。実在の古墳とは何の関係もありません。男の神がいたとされる古墳は架空のものです。」

「この小説は(・・・)空想の含まれる作品です」。だが「この小説はフィクションです」とは作者は記していないことに注意すべきであろう。この小説はひとつの問いかけとなる。つまり「虚構としての私小説はどこまで可能か」という問いである。
この小説において作者・笙野頼子と等号で結ばれるように措定された主人公は、自らを「死んだ女の子の体に宿り、人間として育てられた金毘羅」であると語り始める。周囲とうまく関われず、家族から「男」であることを要求されつつ「女」であるという矛盾を抱えた過去を語りつつ、それは「率直な語り、告白」を回避していく。

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