『<戦争責任>とは何か―清算されなかったドイツの過去』

“戦争責任”とは何か―清算されなかったドイツの過去 (中公新書)






4月14日、町村外務大臣は、参院外交防衛委員会で、韓国のノ・ムヒョン大統領が日本とドイツを比べて、日本の歴史認識を批判していることに対し「単純にドイツと比較というのはいかがなものか」と反論した。
外相は「ドイツはユダヤ民族を抹殺するという大犯罪行為。彼らは(ナチスを)ドイツ人とは別の種類の人たちだったといわんばかりに全部ナチスのせいにすることができた。そういう分類は日本ではなかなかできない」と違いを強調した。
http://www.asahi.com/politics/update/0414/010.html?t

この町村外相の発言はけっこう重要な論点を含んでいると思います。戦後よく語られた神話の一つである「謝罪するドイツ/謝罪しない日本」という2二項対立の図式です。ということで、この本もその点を問題にしており参考になります。

ドイツはよく日本と比較して「自らの戦争責任を認め、謝罪してきた」といわれますが、それが冷戦構造の必然とレトリックによるものである事を明らかにしていきます。冷戦による再軍備の必要性から、一般の兵士をもう一度軍務につかせるべく、兵士の名誉回復を図ったということや、ナチスヒトラー戦争犯罪スケープゴートとして、それを支えた国民としての責任には目をつぶってきたことなどが取り上げられています。*1
ヒトラーがかりに皇帝の血筋であったり、ナチスが教会と密接*2であったなら、そう簡単に切り捨てる事は出来なかったという事です。鉤十字もナチスの旗であり伝統的な国旗でなかったからこそ、日本のような論争にはならなかった。)

付け加えるならば、ポーランドやフランスは自国でもユダヤ人に対する迫害を行っており、その歴史に蓋をするために(ドイツという国家やドイツ人という国民ではなく)ナチスヒトラーを積極的に(絶対的な)悪役にする必要があったという事情があったことも忘れてはならないでしょう。
おそらく「A級戦犯分祀」というのは、この文脈から理解する必要があるのでしょう。「悪い軍部」と「巻き込まれた民衆」という、これまた根強い「戦後の神話」ですね。総力戦下においては全面的に無辜である「巻き込まれた民衆」なんて殆どフィクションなんですけどね。

参考までに、
http://www2.aaacafe.ne.jp/free/nsan/main.bbs
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1292566

(追記)
ホントに強固な神話だなあw
http://www.asahi.com/politics/update/0415/007.html?ref=rss

*1:「ミッテルヴェーク36」による巡回展『絶滅戦争─国防軍の犯罪 1941-1945』が、一般ドイツ兵の残虐行為を問題化したことに対して、1997年3月13日ドイツ連邦議会では激論が繰り広げられた。たとえば、キリスト教民主同盟の議員エリカ・シュタインバッハは「国防軍の名誉挽回のための対抗展示会」を提案している。http://www.afg_vk.de/bundeswehr/wehrma22.htm

*2:乱暴に書いてしまったが、ここはかなり微妙な問題がある。

『ねむり姫』

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫









「ねむり姫」という澁澤龍彦の短篇がある。十四歳の姿のまま眠り続ける「珠名姫」は、盗賊となった腹違いの兄「つむじ丸」にさらわれ山中に捨てられる。その際、両手首を野犬に食い千切られた姫は、寺院に安置されるものの、やがて手に余るようになった僧侶らにより棺に納められたまま船に乗せられ宇治川へと流される。この後の展開は実際に読んでもらうとして、ここで注目すべきは「なぜ姫は両手を失わねばならなかったか」ということである。
当然、「船に乗せられて流される*1」というのは「補陀洛渡海」が背後に想定されている。それを裏打ちするかのように、姫が眠りに落ちるのは阿弥陀堂である。だがそれと同時に、私は「うつぼ船」に乗せられて流される二つの異形を思い浮かべる。一つは源三位頼政に射殺された「ヌエ」(世阿弥の鬼畜物の能「鵺」においても、ヌエの亡霊は舟人の姿で現れ空船に乗って去っていく)であり、もう一方は「水蛭子」である。この二つの異形は身体の過剰と欠損という形で表裏の存在である。
種村季弘は『畸形の神』において、北欧神話の鍛冶屋ヴィーラントのエピソードを紹介する。ミルチヌス王の孫ヴィーラントは、修行元であった小人の鍛冶屋を殺し「大木を空洞にした船」で川を下り逃亡する。そしてニドゥング王の元に身を寄せた彼は、王の家臣を殺したことによって両足の腱を切られて幽閉されることになる。
手と足の違いはあるものの、両者に共通するのは「異能の徴としての不具」である。そしてそういった不具の神は多くの場合海や川など水に深く関係するということも種村の描くところである。たとえば不具の神の代表的存在であるヘパイストスは、その不具と醜さによって母ヘラから捨てられた後、海の女神テティスに匿われて鍛冶の技を磨く。
種村の紹介するエピソードを踏まえて「ねむり姫」に戻るならば、「珠名姫」という名前にも注意すべきである。「珠名姫」の「珠」とは澁澤も書き記すように「海から産するもの」である(山から産するのが「玉」)。海から生まれた未分化の卵である「珠名姫」は川に流され海へ至ることで、母胎としての洞窟からの再生を再演し続けるのである。両手を失い眠り続ける姫はいうなれば「永遠の胎児」なのであり、彼女は生まれながら生まれない。そこにおいて、この物語はすべて彼女の、「胎児の夢」となるのである。
畸形の神 -あるいは魔術的跛者
 
 
 
 
 

*1:私がすっかり見落としていたことに「つむ」という言葉の問題がある。
『妙義抄』に「舶、ツム、今云、オホブネ」とある。
「つむ」と「つむじ」をかけているのと同時に「船舶」と「紡錘」をかけているのである。

『落窪物語』

新編 日本古典文学全集17・落窪物語/堤中納言物語 (新編日本古典文学全集)








落窪物語』とは、通俗小説の偉大なる古典である。
小島政次郎が述べたように、下級の女房の欲望に応える「大衆小説」なのであり、その通俗性のパターンをより過剰な通俗性をもって裏切るところに『落窪物語』の小説としての巧みさはある。
はっきりいって、『落窪』の小説としての「巧みさ」に較べれば、ほぼ同時代の作品である『源氏物語』さえ下手糞な小説に見えてくる。

一般には継母から苛められている娘が権勢家の少将に見初められるというシンデレラストーリーと理解されているが、実はその部分は全四巻のうちの一巻部分にしか相当しない。
では残りの三巻では何が描かれているのかというと、主人公の姫を娶った少将による継母の一家への復讐劇と、和解後の孝養、主人公夫婦の幸福なその後がこれでもかこれでもかと過剰に描かれているのである。

『落窪』の特徴の一つに「色好み」への批判があり、これはまた『源氏』と好対照をなしているといえるだろう。『落窪』で展開される「一夫一妻制」の主張は現代的な感覚からいえば保守的に見えるだろうが、当時の感覚からいえば当時の結婚制度への積極的な批判なのであり、ここにも読者=大衆の欲望を見抜く作者の巧みさが窺える。それほど身分も高くなく美女でもない一般の女房にとって、必要なのは光源氏のような浮気ものの色男なのではなく、安定して自分ひとりを愛してくれるような男なのである。「色好み」的な価値観の中でもっとも不安を抱えているのは、『落窪』の読者のような層なのだから。

『落窪』は江戸時代には賀茂真淵の門流において高い評価を受け、上田秋成も寛政11年(1799)に校定本を上梓している。上田秋成と『落窪』の間には、「浅茅が宿」や「吉備津の釜」の裏に流れるようなこの「一夫一妻イデオロギー」の共通性を感じることが出来る。逆に『落窪』のほうに儒教的倫理観の混入を感じ取るという読みも可能であろうが。

だが、『落窪』の「一夫一妻制」の相手はかならず美男で裕福でなくてはならないのである。少将は姫をほとんどレイプのようにしてその「一夫一妻」を達成させるのであるが、同様に典薬助という老人が姫をものにしようとすると、姫は様々な手段を講じてそれに抵抗し、廊下で下痢を起こすは少将の僕に痛めつけられるは物語の最後ではほぼ唯一悲惨な死を遂げるは、なんとも酷いことになるのである。
また少将は復讐の一環として継母の四の君を、面白の駒と呼ばれる頭の悪い醜男と結婚させるのだが、この男の扱いがまた酷い。何もせずとも笑われるため、ついに出仕することなく引きこもってしまったという男なのだが、ただ四の君を笑いものにするためだけにこの男を道具として利用するのだ。結局、和解後に四の君は別のいい男に嫁ぐことになり、面白の駒は四巻の最後で出家させられてしまう。まったく、当人には全く罪がないのに酷い話である。誰かの幸福を描くためには、別の誰かの不幸が必要であるとは、全くもって通俗的ではないか!

いずれの世にも、求められるものの第一は「金持ちで美形」である。
実は、「一夫一妻」と「色好み」の違いというのは微小な差異にすぎないのだ。

『火の記憶 (1) 誕生』

火の記憶〈1〉誕生
著者名:エドゥアルド・ガレアーノ 飯島みどり・訳
出版社:みすず書房
発行年:2000年


先日は北朝鮮戦が大変盛り上がりましたね。
ということで、スタジアムの神と悪魔―サッカー外伝でもどうでしょうか?

そして、その著者であるガレアーノが描くラテンアメリカの一大叙事詩がコレ、 『火の記憶』であります。


あらすじは書けない。なぜならば、この本において歴史はそれぞれ関連性の無い断片として語られる。それは歴史の様々な局面における挿話であり、多くは歴史の本筋から外れた取るに足らない物語。だが、それら物語の断片は総和として歴史を描き出している。一人の陵辱された女、ラテンアメリカという女の歴史を。白人にその土地から追い立てられ鉱山での苛酷な労働を強いられるインディオたちは、彼らの名前や語る神話すら奪われる。商品として船倉に詰め込まれアフリカから送り込まれる黒人奴隷たちの、百年にわたる叛乱すら一つの死により歴史から失われる。この本の語る物語、虐げられた女の物語は、眼前の現実につながっている。我々は敗者の歴史に余りにも無知である。

はっきりいって非常にお薦めです。自身の創作の上でも多くの影響を受けました。しかし、これがまた非常に読みにくい本で、500頁という分量以上に骨が折れました。ストーリーがある本であれば筋の勢いに任せて読むことが出来ますが、なにぶん筋が無いですから(笑
その上、創世神話から17世紀までを描くこの本はまだ第一部で、あと二冊続きがあったりするのです。とはいえ、これを読んだのは四年も前のことなのに、未だに二巻が出ません。いったいどういうことなのでしょうか(笑

『あなたの人生の物語』

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)
著者 :テッド・チャン 朝倉久志・訳
出版社:早川書房
発行年:2003
価格 :987円

表題作を含む八編を納めた短編集。
多少難解で読みづらいところはあるものの、いづれもSF的な想像力に満ちた傑作である。
物語的なエンジンは弱く登場人物の魅力にも欠けるので、そちらの方面を期待する向きにはお薦めできないが、くすぐりに留まらない知的な快楽としての読書を提供してくれるという点ではまさしく一級品である。


(以下、本作品に触発されての戯言)

ヘプタポッドたちの場合、言葉はすべて遂行文だ。"それら"は伝達のために言語を用いるのではなく、現実化するために言語を用いる。どんな対話においてもそこで言われることをペプタポッドたちがすでに知っているのはたしかだが、その知識が真実であるためには現に対話がなされなくてはならないのだ。

(P265より引用)

あなたは『世界の中心で愛をさけぶ』や『DEEP LOVE』があれほどまでに受け入れられたことを「遂行文」というキーワードと関連づける。それらを読む前から予めあなたは知っている。それがどのような始まりと終わりを持つのかを。あなたはその本を読むのだが、あなたにはその必要はない、あなたはすでにその本を読むという行動においてその本を読み終えているのだから。あなたはその本を解釈することはない、あなたはその本を読むという儀式において読者の役を演じているだけだからだ。そしてその役を演じることを反復することにより「恋愛資本主義」の共同体は維持され、本の中に記された予言はあなたという形で自己成就する。ということを、すでにあなたは知っている。あなたのそばでは六十年連れ添った夫が死を迎えようとしており、そのことであなたがどのように感じるのか、それをもうあなたは知っている。そしてあなたは再演する。

「ここに書いてあるとおりに読んでるけど」しらばくれて、わたしは言う。
「ううん、ちがうわ。このお話、そんなふうに進まないもん」
「へえ、お話がどう進むかがとうにわかってるんだったら、なぜわたしが読んであげなきゃいけないのかしら?」
「だって、聞きたいんだもん!」

(P266より引用)

『闘争領域の拡大』

闘争領域の拡大
著者名:ミシェル・ウエルベック 中村佳子・訳
発行者:角川書店 
発行年:2004年10月 原著:1994 
価格 :1800円

<あらすじ>
「僕」は三十歳になったばかりの中堅プログラマー。社会的地位は申し分ないが、恋愛面では魅力に欠け、恋人と別れてから二年間その方面の関係はない。「僕」は長期の出張においてティスランという同僚と組むことになる。彼はひどい醜男で、様々な努力をしながらもそれが報われることはない。「僕」は次第に彼に同情を寄せていき、クリスマスイブのディスコでまたしてもナンパに失敗した彼に復讐をけしかける・・・。


「意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、全ての生は限界を知らない苦悩である」
 ウエルベックの次回作はショーペンハウアー論であるそうであるが、ショーペンハウアーのこの言葉はウエルベックの小説世界をよく表している。彼の作品は常に苦悩と苦渋に満ちている。それはドラマ性を帯びた「不幸な事件」などではなく、事件が「ない」ことの方に関係するような苦悩としての生そのものなのである。
 本作はウエルベックの小説第一作にして彼の作品の原型である。たしかに第二作『素粒子』ほどに巧緻ではないシンプルな小説ではあるが、そうであるだけに「性的行動はひとつの社会階級システムである」というそのテーマ性はより明確なものとなっている。彼の続く二作品はこのテーマの変奏なのである。そしてその根本に据えられるのは「自由な社会における人間関係の不可能性」といったものであり、これに対してウエルベックは『素粒子』において「人間は波打ち際の砂に描かれた顔のように消滅するだろう」(『素粒子』のオチとフーコーの発言との類似についてはシジェクも以下のページhttp://www.lacan.com/nosex.htmで言及している ネタバレありw)とでもいうかのようなある種究極的な解決を用意するが、本作ではそこまで徹底されておらず、何ら救いが見られないままありがちとも言える終わり方をしてしまうのは多少不満である。

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対化する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。(・・・)これがいわゆる「市場の法則」である。
(作中より引用)

『甘美なる来世へ』

甘美なる来世へ
著者 :T.R.ピアソン  柴田元幸・訳
出版社:みすず書房 
発行年:2003年 
価格 :2800円


ノースキャロライナの架空の田舎町ニーリーを舞台に、貧しく教育もない民衆が繰り広げる群像劇といったところだろうか。一応ベントン・リンチが恋人との出会いにより強盗と殺人に手を染めていくことになるという中心的なストーリーはあるものの、そのストーリーが見えてくるのはほぼ半ばを過ぎたところであり、全編を通して過剰なまでに饒舌な言葉のみが存在している。

たとえば、以下のような文章。これで一文である。

どうやら物事はほとんど何ひとつバッファロー氏が予想していた通りにはならなかったのである。子供たちは大きくなってどこかよそへ行くものと思っていたのにどこへも行かなかったし、母親が死んでも自分は疚しさと失望を感じたりはしないものと思っていたのにしっかり感じたし、アメリカの民主政治はろくでもない考えに染まった野蛮な東洋人一握りくらいあっさり説き伏せねじ伏せてしまうものと思っていたのにそれもできなかったし、敬愛するジョージ・コーリー・ウォレス知事はアメリカ合衆国第38代大統領になるものと思っていたのにならなかったし(中略)、というわけで今まで思っていたことはことごとく覆され期待していたこともことごとく裏切られてしまったのでありバッファロー氏はもはや我慢もこれまでと決めこの世界にはもう、ひょっとしてどこかにいるかもしれぬ誰かにめぐり遭うこと以外この糞ったれの人生を生きる意味などないとありはしないと思い定めたのである。

そこに描かれるのは、平凡以下の民衆の糞ったれな日々と糞ったれな人生である。ジャンクな固有名詞とスラングに満ちたくだらないおしゃべりの海である。その糞の向こうに想像される希望としての「ここではないどこか」、それはベントン・リンチの場合には破滅しかもたらさなかった希望であった。だが、それがいかに危ういものだとしても「ここではないどこか」を想像せずには糞に耐えることはできないのである。自分が糞の中に浸かっていることに気づいたものにとっては。そして、多くの場合、気づかないふりをするか、それとも本当に気づかないくらいに愚かであるかしかない。

我々の「超越への欲求」は最悪の場合オウムのような形で表出することになる。だが、我々は日常の暴力性に対し「暴力的な超越性」以外の方法で耐えることができるのだろうか。糞を舐めることを強いられたとき、いかにしてNonと言うのか。「神」も「進歩」も否定してしまったあとに「向こう側」はありうるのか。などと、なにやら村上春樹の作品でも読んだ後のような感想を抱いてしまいました。まったく異なった作風であるにもかかわらず。