『闘争領域の拡大』

闘争領域の拡大
著者名:ミシェル・ウエルベック 中村佳子・訳
発行者:角川書店 
発行年:2004年10月 原著:1994 
価格 :1800円

<あらすじ>
「僕」は三十歳になったばかりの中堅プログラマー。社会的地位は申し分ないが、恋愛面では魅力に欠け、恋人と別れてから二年間その方面の関係はない。「僕」は長期の出張においてティスランという同僚と組むことになる。彼はひどい醜男で、様々な努力をしながらもそれが報われることはない。「僕」は次第に彼に同情を寄せていき、クリスマスイブのディスコでまたしてもナンパに失敗した彼に復讐をけしかける・・・。


「意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、全ての生は限界を知らない苦悩である」
 ウエルベックの次回作はショーペンハウアー論であるそうであるが、ショーペンハウアーのこの言葉はウエルベックの小説世界をよく表している。彼の作品は常に苦悩と苦渋に満ちている。それはドラマ性を帯びた「不幸な事件」などではなく、事件が「ない」ことの方に関係するような苦悩としての生そのものなのである。
 本作はウエルベックの小説第一作にして彼の作品の原型である。たしかに第二作『素粒子』ほどに巧緻ではないシンプルな小説ではあるが、そうであるだけに「性的行動はひとつの社会階級システムである」というそのテーマ性はより明確なものとなっている。彼の続く二作品はこのテーマの変奏なのである。そしてその根本に据えられるのは「自由な社会における人間関係の不可能性」といったものであり、これに対してウエルベックは『素粒子』において「人間は波打ち際の砂に描かれた顔のように消滅するだろう」(『素粒子』のオチとフーコーの発言との類似についてはシジェクも以下のページhttp://www.lacan.com/nosex.htmで言及している ネタバレありw)とでもいうかのようなある種究極的な解決を用意するが、本作ではそこまで徹底されておらず、何ら救いが見られないままありがちとも言える終わり方をしてしまうのは多少不満である。

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対化する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。(・・・)これがいわゆる「市場の法則」である。
(作中より引用)