『甘美なる来世へ』

甘美なる来世へ
著者 :T.R.ピアソン  柴田元幸・訳
出版社:みすず書房 
発行年:2003年 
価格 :2800円


ノースキャロライナの架空の田舎町ニーリーを舞台に、貧しく教育もない民衆が繰り広げる群像劇といったところだろうか。一応ベントン・リンチが恋人との出会いにより強盗と殺人に手を染めていくことになるという中心的なストーリーはあるものの、そのストーリーが見えてくるのはほぼ半ばを過ぎたところであり、全編を通して過剰なまでに饒舌な言葉のみが存在している。

たとえば、以下のような文章。これで一文である。

どうやら物事はほとんど何ひとつバッファロー氏が予想していた通りにはならなかったのである。子供たちは大きくなってどこかよそへ行くものと思っていたのにどこへも行かなかったし、母親が死んでも自分は疚しさと失望を感じたりはしないものと思っていたのにしっかり感じたし、アメリカの民主政治はろくでもない考えに染まった野蛮な東洋人一握りくらいあっさり説き伏せねじ伏せてしまうものと思っていたのにそれもできなかったし、敬愛するジョージ・コーリー・ウォレス知事はアメリカ合衆国第38代大統領になるものと思っていたのにならなかったし(中略)、というわけで今まで思っていたことはことごとく覆され期待していたこともことごとく裏切られてしまったのでありバッファロー氏はもはや我慢もこれまでと決めこの世界にはもう、ひょっとしてどこかにいるかもしれぬ誰かにめぐり遭うこと以外この糞ったれの人生を生きる意味などないとありはしないと思い定めたのである。

そこに描かれるのは、平凡以下の民衆の糞ったれな日々と糞ったれな人生である。ジャンクな固有名詞とスラングに満ちたくだらないおしゃべりの海である。その糞の向こうに想像される希望としての「ここではないどこか」、それはベントン・リンチの場合には破滅しかもたらさなかった希望であった。だが、それがいかに危ういものだとしても「ここではないどこか」を想像せずには糞に耐えることはできないのである。自分が糞の中に浸かっていることに気づいたものにとっては。そして、多くの場合、気づかないふりをするか、それとも本当に気づかないくらいに愚かであるかしかない。

我々の「超越への欲求」は最悪の場合オウムのような形で表出することになる。だが、我々は日常の暴力性に対し「暴力的な超越性」以外の方法で耐えることができるのだろうか。糞を舐めることを強いられたとき、いかにしてNonと言うのか。「神」も「進歩」も否定してしまったあとに「向こう側」はありうるのか。などと、なにやら村上春樹の作品でも読んだ後のような感想を抱いてしまいました。まったく異なった作風であるにもかかわらず。