『月』

月
著者 :アマール・アブダルハミード 日向るみ子・訳
出版社:アーティストハウス
発行年:2002


イスラムの因習に縛られ閉塞したシリアの社会を舞台に、性的抑圧に苦しむ男女の姿を描く。
 主人公は極端に嗅覚が発達した青年、彼は聖職者である父に結婚を命じられるものの、父が薦める「ベールをかぶっているような」保守的な女性たちにどうしても性的魅力を感じることが出来ない。そのような状況の中、次第に苛立ちを深めていく彼は、美しく奔放な人妻と秘められた関係を結ぶ。そしてまた、もうひとりの主人公である夫との性生活に満足できない若妻(主人公と恋に落ちる人妻の友人)は、女友達との同性愛によって満足を得ようとする。
 ふたりの主人公はそれぞれ異端と見なされるような性行為に耽り、やがて秘密を抱える内面は信仰との折り合いがつかなくなる(法典に禁じられているような秘密を隠しているということは、すでに内面において信仰を裏切っているということである)。そして出会った二人はそれぞれの過去の秘密を開示することにより、異端として遠ざけられていたことが「あたかも存在しないかのように」ただ隠されているだけで、それは普通に存在しているのだということを知る。

 技法的には「心情」や「予感」と「出来事」を区別して並列的に書くことによって、行動と内面、建前と本音の分離を強いられるイスラム社会を表現している。(それほど新しい手法でもないが)
 西洋における60年代の性的解放を、イスラムの現在はなぞっているようにも見え、それが何をもたらしたかを知る我々にとっては、すべては愚かしく物悲しい。結局それがもたらしたのは、限りない欲望に基づく不毛な性的競争と、満たされることの無い者(競争の敗者)の苦々しさだけなのだ。『素粒子』の直後に読んだために、その空しさがかえって際立つ事となってしまった。
 また、内面の描写にこだわる余り、舞台となるダマスカスの町や主人公たちが閉塞を感じるイスラム文化の描写が上手く出来ていないのも欠点のひとつである。ダマスカスやイスラム文化をよく知る筆者の同国人にとってはそれでも良いかも知れないが、異国人である我々にとっては不十分な描写という他はない。