ニッポニアニッポン

ニッポニアニッポン
阿部和重:著
新潮社 
2001年発行


<あらすじ>
中学時代の同級生にストーカー行為を働いたことにより、実家を追われ東京のアパートに一人暮らししている18歳の少年。部屋にこもり日の多くをネットに費やす彼は、次第に「佐渡島のトキを殺して人間の書いたシナリオを破壊する」という妄想にとらわれていく。やがてストーカー相手の少女が自殺したことを知った彼は妄想の計画を実行へと移していく。


おそらく「ネオ麦茶」や「大分一家惨殺事件」などの一連の少年事件にインスパイアされた小説である。妄想にとらわれていく主人公の姿を一歩引いた視点(警察の取り調べ調書のような感じもする)から描き出していくのだが、この「描き方」こそがこの小説の一つのキモである。

三人称で描かれることにより我々はそれを小説内における「客観的事実」と思いがちであるが、この小説は三人称を採用しながらもその不在の語り手は「信用できない語り手」であるようなのである。ネット上でのやり取りを裏付け保証する方法がないこと絡めて、小説内容の真偽を保証することは誰もできないという主張がそこに込められているのではないだろうか。
(主人公はある時点まではカギ括弧を用いた会話を行わず彼の発言は地の文に埋め込まれている。主人公の肉声が向かうのは彼の「日記」のみである。しかし、ある場面においてのみ彼はカギ括弧を用いた発言を行う。そのことも、この語り手の信頼性ということと含めて注目しておくべきだろう。そもそも、ネット上に何故日記なんて公開するの?ネット上の日記は誰に語りかけているの?日記の内容は本当のことなの?本当でないのならそれは「日記」と呼べるものなの?)


また、この小説の中には多くのWebや新聞の記事がそのまま引用されており、その他にも交通機関や護身用具についての細かいスペックなどが散りばめられている。そのような「情報」の発信や「情報」に対する意見・態度の表明自体が内面の表出となるという、ネット人格のあり方とつながる主人公の描き方がこの小説中ではなされている。「情報」の集積の中に人格の表出が行われているのである。(逆にいえば、ネット上では人格が情報化されているということである。)

ここには、高度情報社会におけるアイデンティティとは何か、というテーマが表されているように思える。『なんとなくクリスタル』の巻末に付された「註」が物の消費を通して人格が示される「大量消費社会」を映した鏡であったように、この小説は「情報」が大量に生産・消費される時代の小説と言えるのではないだろうか。
(あっ、だからって『なんとなくクリスタル』がいい小説だと言っているわけではないからね。あくまでも「註」だけね。ニコルソン・ベイカーの『中二階』ぐらいまで徹底してしまえば当時としては画期的な小説になりえたと思うけれど。)


<以下少々ネタバレあり>
この小説のラスト2行については賛否両論あるだろう。私も最初は不要であるように思えた。とってつけた「救い」のような気がしたのである。「主人公の分身」であるメール相手の男もまた、主人公のように妄想と犯罪のボーダーを越えることが示唆されるというのが、小説の流れとしては自然であり「甘さ」を感じさせない終わりかただと思ったのだ。

しかし、作者は「窓外の風景を眺めているうちに、感情の波も平静に復し、気晴らしにどこかへ出掛けてみようかな、と彼は思った。久しぶりに外出してみるのも、悪くないような気がした。」という2行を敢えて加えたのである。同じような状況にあったとしても誰もが同じようにボーダーラインを越えてしまうわけではない、という作者の主張がここには込められているのである。同じように見えてもそれぞれ違うという人間の個別性への期待と、一連の少年犯罪を一連の文脈のうちに読み解く言説への批判が、この2行に集約されているのではないだろうか。