シルエット

シルエット (講談社文庫)
島本理生:著 
新潮社 
2001年発行
(現在ハードカバー版は絶版。右は文庫版)


<あらすじ>
 高校2年の「わたし」は、以前同級生の「冠くん」と付き合っていた。彼は、父親に刺されて寝たきりとなった母親と二人暮しをしていたのだが、家庭崩壊の原因となった母親の家出がトラウマになっていて女性の肉体を嫌悪してしまう。それが遠因となって二人は結局別れてしまう。
 別れに打ちのめされた「わたし」は家出して、どうでもいい男のアパートに転がり込み、愛のないセックスにふけることで冠くんのことを考えないようにする。しかし、そのまま腐ってしまうこととその男に感情移入して離れられなくなることを恐れた「わたし」は夏休みのうちに家へ戻る。
 その後、「わたし」は大学生の「せっちゃん」と付き合い始め、彼といるととが自然で不可欠になることによって、「冠くん」への思いは次第に過去の思い出へと変わっていく。


これまた17歳現役女子高生の作品。第44回群像新人文学賞優秀作とのこと。同じ女子高生ということで綿矢りさの『インストール』と比較してしまうが、『インストール』が文体の芸と道具立ての魅力で読ませる小説であるのに対し、本作『シルエット』はむず痒いほどの小綺麗な比喩を多用したコンサバティブな恋愛小説である。

確かに小説としては上手いのであるが、「生き生きした会話」とは無縁で、登場人物の存在感がどうにも希薄なのである。現実にこんな高校生っているのかー?という感じ。
2001年の高校生の姿を描くというよりは、昔の恋愛小説を読んでいるような感じで、意図的にアクチュアルなものを拒絶しているようにも思える。

これは「結局、何年か後に読んでも変わらない感覚というのがやっぱり、文学の一つの重要なところだと思います。わたしは変わらないものを残したい」という作者の意図が反映されているのであろう。
(さらに、「いまどきの女子高生って、電車なんかで見てると、もっとパッパラパーって感じで」というインタヴュアーの発言に対して「たしかに電車の中で話していることなんかを聞くと、そう思うかもしれないけれど、いまの子たちはわりと語らない部分が多いと思う」と回答していることからも、彼女が表面的な現在性から離れようとしていることが伺える。)

しかし、それでも、日常的なことを描きながらも小奇麗で現実感の薄いところに微妙な違和感を感じてしまう。日常ってもっと不恰好でジャンクなものじゃない?読書好きで経験の多くを書物を介在する疑似体験に頼る少女が、頭で考えて書いた小説、と言ったら言い過ぎかなあ。(笑)

『インストール』の場合にも同じような現実感の薄さはあったのだけれど、設定と文体の工夫のためにか、それほど気にはならなかった。少なくとも、登場人物が現実から乖離しているという感じはしなかった。(それよりも、むしろ結末の青臭さが気になった。)「ネット人格」を扱ったその設定が、アクチュアルな所から逃れずに向き合っていることの現われとなっている。

眼前の現実と距離をおいた所から普遍的な精神のあり方へと辿り着こうとするのなら、それが活きるような舞台設定をするべきであり、それを現在の中に置くことは却って作品を嘘っぽくしてしまっているのである。

今回芥川賞を受賞した長嶋有氏も朝日新聞のインタヴューにおいて「文体、テーマの新しさなどは意識しない。1980年の夏がきちんと書けていれば、それは50年たっても古びないと思うんです」という発言をしていた。

だけれど、大量消費時代においては文学も消耗品であることからは逃れられないと私は思っている。確かに島本や長嶋のように文学を強く信頼する態度もあるだろう。しかし、21世紀の現在に向き合うとは高度大衆社会という(文学を含めた)ジャンクの集積に向き合うということであり、ジャンクの集積としてしか物事を語り得ない自らの言葉に向き合うということでもある。(ちなみに、自らのジャンク性に最も意識的な作家は村上春樹だというのが大塚英志の主張である。)
 
予め時代を超越したものを提示しようとするのではなく、初めはジャンクとして提示されたものが歴史を経ることにより、結果として普遍性を持ったものだけが残っていくのである。何が残るべきかを選ぶのは、あくまでも「読者」の側である。
 私は、ジャンクの集積でしかない眼前の何者かの反映である小説を通じて普遍へとつながっていきたいのである。

ベテラン作家ならともかく、17歳の新人作家がこんな無難な小説書いてちゃイカンよ、もっと冒険しないと。(笑)

PS.
綿矢の作品のように話題にならなかったのは、作者が不器量だからという噂(笑