『落窪物語』

新編 日本古典文学全集17・落窪物語/堤中納言物語 (新編日本古典文学全集)








落窪物語』とは、通俗小説の偉大なる古典である。
小島政次郎が述べたように、下級の女房の欲望に応える「大衆小説」なのであり、その通俗性のパターンをより過剰な通俗性をもって裏切るところに『落窪物語』の小説としての巧みさはある。
はっきりいって、『落窪』の小説としての「巧みさ」に較べれば、ほぼ同時代の作品である『源氏物語』さえ下手糞な小説に見えてくる。

一般には継母から苛められている娘が権勢家の少将に見初められるというシンデレラストーリーと理解されているが、実はその部分は全四巻のうちの一巻部分にしか相当しない。
では残りの三巻では何が描かれているのかというと、主人公の姫を娶った少将による継母の一家への復讐劇と、和解後の孝養、主人公夫婦の幸福なその後がこれでもかこれでもかと過剰に描かれているのである。

『落窪』の特徴の一つに「色好み」への批判があり、これはまた『源氏』と好対照をなしているといえるだろう。『落窪』で展開される「一夫一妻制」の主張は現代的な感覚からいえば保守的に見えるだろうが、当時の感覚からいえば当時の結婚制度への積極的な批判なのであり、ここにも読者=大衆の欲望を見抜く作者の巧みさが窺える。それほど身分も高くなく美女でもない一般の女房にとって、必要なのは光源氏のような浮気ものの色男なのではなく、安定して自分ひとりを愛してくれるような男なのである。「色好み」的な価値観の中でもっとも不安を抱えているのは、『落窪』の読者のような層なのだから。

『落窪』は江戸時代には賀茂真淵の門流において高い評価を受け、上田秋成も寛政11年(1799)に校定本を上梓している。上田秋成と『落窪』の間には、「浅茅が宿」や「吉備津の釜」の裏に流れるようなこの「一夫一妻イデオロギー」の共通性を感じることが出来る。逆に『落窪』のほうに儒教的倫理観の混入を感じ取るという読みも可能であろうが。

だが、『落窪』の「一夫一妻制」の相手はかならず美男で裕福でなくてはならないのである。少将は姫をほとんどレイプのようにしてその「一夫一妻」を達成させるのであるが、同様に典薬助という老人が姫をものにしようとすると、姫は様々な手段を講じてそれに抵抗し、廊下で下痢を起こすは少将の僕に痛めつけられるは物語の最後ではほぼ唯一悲惨な死を遂げるは、なんとも酷いことになるのである。
また少将は復讐の一環として継母の四の君を、面白の駒と呼ばれる頭の悪い醜男と結婚させるのだが、この男の扱いがまた酷い。何もせずとも笑われるため、ついに出仕することなく引きこもってしまったという男なのだが、ただ四の君を笑いものにするためだけにこの男を道具として利用するのだ。結局、和解後に四の君は別のいい男に嫁ぐことになり、面白の駒は四巻の最後で出家させられてしまう。まったく、当人には全く罪がないのに酷い話である。誰かの幸福を描くためには、別の誰かの不幸が必要であるとは、全くもって通俗的ではないか!

いずれの世にも、求められるものの第一は「金持ちで美形」である。
実は、「一夫一妻」と「色好み」の違いというのは微小な差異にすぎないのだ。