『フェルマータ』

フェルマータ (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
著者 :ニコルソン・ベイカー著 岸本佐知子
出版社:白水社(Uブックス)
発行年:1998



時間を止める能力を持った男が書いた自伝、という枠組みを持つ小説。だが、その能力はほぼ「女の服を脱がせ裸を見ること」のみに用いられ、その自伝もいきおいポルノ的な様相を示す。そして「女体への妄想」とともに、この小説の大きな部分を占めるのは、女体への妄想と能力の性的な行使を正当化する「いいわけ」である。
 その「いいわけ」は、誰にも気づかれない行為は誰も不快にしない、自分の行為は悪意に基づくものではなく女性への愛に基づいているなど、様々に、そして饒舌に語られるが、その背後に透けて見えるのは、本当の意味での「行為することへの恐れ」、行為によって傷つけ傷つけられることへの恐れではないだろうか。フェルマータとは音楽用語で「出来る限りの延長」を意味する。時を止めるという能力によって、一瞬は無限にまで引き延ばされ、行為は結果から切り離される。行為の結果が起こったときには、自分はその場にいない。それは結果が訪れるということの無限の延長ということでもあるのだ。

そしてまた、読み取ることの出来るもう一つのテーマは、現代の作家の多くに共通したテーマである「書く事の孤独、読む事の孤独」である。言うまでもなく、時間を止めるという能力は「孤独になる能力」でもある。個人的な孤独の産物である妄想はその能力によって現実化するが、それでもなおそれは孤独の産物でしかないのである。観察者にとって、他者の人格というのは停止した時間の中の人間のように想像上の産物であることを免れえず、他者への愛というのも想像/妄想に基づくものでしかありえないのである。
 それは作家と読者という関係においても同様である。作家は読者のことを思いながら妄想を作品として具現化しながらも、作品は作家から読者へ一方的に投げられる形でしか生み出されえない。読者は読者で、どれほど作品の世界に没入しようと、それは既に作者から切り離された世界でしかないのである。作品は書かれた時点で書物というときの止まった世界に固定化されるのに対し、作品が書かれた後も作者の時間は流れつづけ作者は変化しつづける。作者が死んでも作品は死なない。作者と読者は明らかに別の時間を生きているのだ。